主に選ばれた者として歩む

 あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。(ヨハネによる福音書15章16節)
                   
 以前、内村鑑三という、日本の代表的なキリスト者の次のようなエピソーを読んだことがあります。彼は、アメリカの神学校で学んでいた時、自分の罪の問題に大変苦しむ時期があったそうです。自分が人に対して無償の愛を注ごうと努力しても、自分の心はいつも「自分の救いのために人に尽くす」という自己中心的な思いに囚われ続けている。結局、自分はその罪の思いから抜け出せない、神様に滅ぼされても仕方のない人間なのだ、と。その時、彼の学んでいた神学校の校長がこう言ったそうです。「君のしていることは、木を植えた後に、その木の成長を確かめるために、いちいち木を引っこ抜いて、その根を調べるようなものだ。一度植えた木は太陽の光と雨とに委ねなければならない。君は自分の心の内を見つめ続けるのではなく、キリストの十字架の愛を見上げていくべきだ」と。

 何キロも続く長いトンネルを車で通過していく時、果たしてこのトンネルは出口がないのではないか、と途中で車を停めてあきらめてしまう人はいないでしょう。出口はかならずあると知っているから、出口の見えない長いトンネルも安心して運転し続けることが出来るのです。それと同様、私たちは信仰の道をあきらめて途中で停まってしまってはならないのです。人間の努力や知恵や力では到底掘り抜けない「巨大な罪の岩盤」が、すでにイエス様の十字架という神の独り子の贖いのみわざにより打ち抜かれ、永遠の命へと続くトンネルが通じているのですから。

 以前、夫婦で京都の北山という所へ出かけた時、有名な北山杉がある所までの道案内の看板がありました。そこに「徒歩15分」と書かれてあったので、駐車場に車を停め、そこから山道を歩いて行こうとしたのです。しかし、その道は車の交通量も多く、人が歩けるような舗道もなく、ずっと歩き続けても私たち以外に歩いている人の姿は見かけませんでした。車が何台も行き来する道を、ガードレールの方に身を寄せながらとぼとぼ歩いて行ったのですが、一向に北山杉のあるような所へは行きつけません。そのうち目の前にトンネルが現れました。どう考えても人が歩いて通るようなトンネルとは思えず、もし中に入ってもあの中で車とすれ違うことを考えたら想像しただけでゾッとしました。もうこれ以上は進めないとあきらめ、歩いてきた道をまたとぼとぼ駐車場まで引き返す破目になってしまいました。結局、自動車でそのトンネルを越えて何とか北山杉のある所を見つけることは出来たのですが、あの「徒歩15分」の案内は何だったのか、未だに謎です。

 しかし、その案内を信じて歩いていったのは自分の選んだことだったのですから誰にも文句は言えず、また自分が選んだ道であったから、自分であきらめひきかえすことも出来たのです。しかし信仰の道は、自分が選んだのではなく、十字架の贖いの御業によって、私たちの罪をすべて帳消しにしてくださった、そのイエス様の方から私たちを選び信仰者として歩みださせた道なのです。その信仰の道を私たちはイエス様の愛によってこそ、前へ前へと進んで行くことが出来る。すでに主によって、どんな人生も希望へと続く道として通じている。そのことを信じ歩む者には、常に、自分にとって最も良い道を、主が選んで、目の前に備えてくださるのです。
[2017年5月21日週報より)