和解させていただいた者として

 敵であったときでさえ、御子の死によって和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです。(ローマの信徒への手紙5章10節)
                
 「敵」を作るのは、人間の憎しみや恨み以前に、自分自身の恐れや心の弱さなのではないでしょうか?「敵を愛しなさい」というイエス様の教えは、私たちにとってはるかに高い理想であり、とうてい乗り越えることの出来ない高峰に思えますが、それも突き詰めて考えるならば、まず、私たち自身の恐れや心の弱さを取り除くことが出来るのなら、それこそが「敵を愛する」第一歩なのだと言えるでしょう。

 先週、障がい者施設に押し入って、19人もの入所者の人たちの命を奪い、その他多数の方々にも深い傷を負わせるという残忍な事件が起きました。「障がい者がいなくなればいい」という恐るべき理由がその犯行の動機であったと報道されていますが、そのもっと深い根っこにあるのは、やはりその凶行を行った人間自身の恐れと心の弱さなのではないか、そのように思えてなりません。

 人は自分自身の思い通りにならない現実に直面する時、自分の存在が周囲から認めてもらえない、自分は社会から疎外されている用のない存在なのではないか、という自己に対する過小評価しか出来なくなることが往々にしてあります。そのような時、自分がこの世で価値のない存在として社会から弾き出されてしまう、そういう恐怖や不安に駆られ、その自分自身の弱さを何とか否定し強い人間のように振る舞おうとすることも間々ありがちな事なのです。そういう時、人は自分よりも劣っていると自分が見なしている存在を「こんな奴らは生きていても価値がない」と決めつけ、差別し排除の標的としたがる、そういう風に「敵」を作り、自己の勝手な理屈でその相手を攻撃し始めてしまいやすいのです。実はその「敵」を作っているのは、自分自身の内にある自己否定的なコンプレックスであり、この社会から自分が排除されるのではないかと思い込む自分自身の恐怖そのものなのだ、ということに気づかないまま、人は周囲に「敵」を増産し続けてしまうのです。

 「敵であったときでさえ、御子によって和解させていただいた」と使徒パウロは語っていますが、そのパウロも過去に自分自身、神様の前で完全であろうとしてそうなれない自分に焦りを覚え、不完全な自分は神様に見捨てられるのではないかという恐れの余り、自分よりもはるかに「罪人」ではないかと見なせるキリスト者を迫害して、「私はこれほど神に熱心に仕えている」とアピールした人でした。しかしパウロは復活のイエス様との出会いにより、神様に敵対していたのは他の誰でもない自分自身であったことに気づかされ、徹底的に打ちのめされたのでした。しかし、その敵であった自分が、主の十字架の贖いにより神様と和解の恵みを受け、その和解の使者として伝道へと用いられる者とされた。それゆえ、もはや「敵」を作る必要からも、自分自身の恐れや不安から自分以外の誰かを憎み攻撃する弱さからも解放されたのです。どんなに不完全で弱さを持つ人間も、イエス様の愛によって、愛されていない必要とされていない者はいない。そのイエス様の和解の十字架の恵みから外されている人間など一人もいない。その喜びの確信こそが、神様に和解させていただいた者として、この世界の平和を祈り続けていける原動力なのです。
(2016年7月31日週報より)