友となられるために来られた主

そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。(ルカによる福音書2章1節)
                   
 ローマに初代皇帝として登場したアウグストゥスは、ローマの支配下にある国々の住民に対し、人口登録のためそれぞれの生まれ故郷へ帰るよう勅令を発した、と福音書は伝えています。この人口登録は、税金を課したり徴用に駆り出すことの出来る人数がどれだけいるかということを確認し、権力者が支配下にある国々の人数をデーター化し、管理するためのものでした。人をそのようにデーター化し管理することは、その命令を発する人間が絶対的な力を持っていなければ不可能なことです。アウグストゥスはその絶対的権力をもって、人々を意のままに動かすことの出来る立場にあったのです。

 その絶対的権力者とは対照的に、イエス・キリストは何の力もない、貧しい庶民の子どもとして、馬小屋の飼い葉桶の中に寝かされる身となってこの世界に生を享けたのです。かたや栄光の座にある皇帝が、全住民を駒のように動かす力を誇り、人々を自分の権力によって使役する道具として管理する時代、もう一方では何の光も差し込まない馬小屋に、無力な幼子が飼い葉桶のわらを寝床として生まれた、その同じ人間同士の間に天と地ほどの開きがあることを、際立った形で描いているのがクリスマスの物語なのです。今、私たちの生きる世界も、あのクリスマスの出来事が起きた2000年前と、さほど変わりのない現実が支配的なのではないでしょうか?力のある人間が己の意のままに富や名誉を自らに集中させ、その栄光の影に無力な多くの民衆が貧しくされ、権力の道具として利用される価値があるかないかでその存在を認められたり排除の対象にされる。そのように人を管理する側と管理される側へと大きく分け隔てる厚い壁が、私たちの世界には厳然としてあることを否定することは出来ません。

 その私たちの世界に、神の独り子が無力な幼子として、飼い葉桶に寝かされる身となってやって来られた。管理する側ではなく、管理される側の存在として、人をデーター化し道具として使役する側ではなく、利用され使役される側の人間として来られたことを聖書は記しているのです。しかし神様は、その無力な幼子を通し、人間を道具としてでもなくデーターの一部としてでもなく、ただすべての人間が神の愛の光に照らされ価値ある者として生きることが出来る、管理したり管理されたりする人間の間の厚い壁を取り除き、人間が人間として互いにありのままに認め合うことの出来る自由な世界へ私たちを導くため、御子を遣わされたのです。

 あるテレビドラマの中に「あなたのことを大好きだから、もう会いたくない」という台詞がありました。それは女子刑務所の中で、刑務官と受刑者の立場を越え友情に結ばれた二人の女性の間で、刑務官が釈放される相手に向かって言う台詞でした。それは管理する側と管理される側の二人が、その置かれた立場の壁を突き破って、人として理解しあう友から友へ贈られる言葉だったのです。私たちもこのクリスマスに、神の子が私たち一人一人を愛すべき友として「あなたのことを大好きだから、もうあなたは誰にも管理されてはならない、もう自由にされた者として生きなさい」と語りかけるその愛の言葉を自分への大切な贈り物として聞きましょう。
(2017年12月10日週報より)