神様に応答する者として

 いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。(ヨハネによる福音書1章18節)
                   
 イエス様は「神の言」として、この世に来られた方だとヨハネ福音書は告げています。そして、私たちはその「言」によって創られた一人一々であるというのです。「この人々は、血によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれた」とあるように、イエス様を「神の言」として受け入れた者、つまり教会に連なる私たち一人一々は、この「言」を自分自身の命として生きる者なのであります。

 生まれたばかりの子どもは、初めから言葉をしゃべりません。しかし、この子はしゃべらないから言葉をかけても返事もしない、といって一言も我が子に言葉をかけない親はいないでしょう。親は我が子がまだ言葉を知らずしゃべることの出来ない時から、「おなかが空いているの」とか「おしめが濡れているのかい」と言葉をかけつつ、その子が自分の口から言葉を発する時を楽しみにして待ち続けていくのです。

 私の娘が言葉を発するようになった頃、よくこんな言葉を口にしました。「なにか食べ物」と。お腹が空いたということを言っていたわけですが、よその人が聞いたら「まあ、かわいそうに。親からろくに食べさせてもらえないのかしら」と虐待を疑われてしまいそうな言葉です。しかし、そんな未熟な表現でも、親としては決して忘れられない言葉なのです。子どものほうはすっかり忘れていても、親はいつまでもその幼い子の未熟な言葉を宝物のように心に刻み付けているのです。

 イエス様は神様の愛を、親が幼い我が子を慈しみその成長を楽しみにして見守り続けるような神様の人間への愛を、ご自身の十字架の生涯を通して現していかれたのです。そのイエス様の言葉は、親がまだ言葉を理解しない我が子に対し、繰り返し繰り返し語り続けるように、愛と忍耐によって私たちに語りかけられている神様の言葉なのです。その言葉を、自分自身への語りかけとして聞く時に、私たちもまた未熟ではあっても精一杯、親に応える子どものように、神様に応答していく者となっていくでしょう。

 この世界の現実では、言葉が人を傷つけ、言葉と言葉の応酬によって人間関係が悪化してしまうことがしばしば起こります。それは自己中心的な思いから出る言葉であり、自分を絶対化し他者を攻撃するためだけに放たれる凶器のような言葉でしかありません。そのようなこの世の言葉は、憎しみや絶望を生む以外、何の実りももたらさない虚しい言葉です。しかし、聖書の言葉、主イエスの御言葉は、私たちを本当に神様から生まれた者として、神様の愛の語りかけに応答できる者へと私たちを成長させるために、いつも繰り返し繰り返し語りかけて下さる、人を人として生かすための糧として与えられる言葉なのです。私たちは神様を直接には見ることは出来ませんが、唯一、神の独り子であるイエス様を通して、私たちに対する神様の深い愛のみこころを示され、そのイエス様の御言葉によってこそ、神の子として生きることの出来る喜びと希望に支えられ、主に応える者となっていくのです。
(2017年11月26日週報より)