神の国の歴史

 夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。(マルコによる福音書4章27~28節)
                   
 来週、私たち広路教会は創立130周年の記念日を迎えます。名古屋学院の創設者F・C・クライン宣教師が、17名の信徒により名古屋第一美普教会を設立したのが1887年11月27日でした。戦争中、空襲により会堂を焼失し、その後15年間、家庭集会によって礼拝を守り続け、1961年に現在の地に教会堂を建て、広路教会として今に至っています。このような教会の成り立ちや歴史に関しては、130年後の私たちも、残された資料によって知ることは出来ます。しかし、教会の歩みはその資料によって知りつくせない、数多くの信徒の人々によって支えられてきたのであり、明治、大正、昭和という日本の激動の時代、教会がどれほどの苦労と困難を味わってきたかは私たちの想像の及ばないところであります。

 先日、長野の松本へ出かけた折、安曇野の美術館に立ち寄ることにして車を走らせていたら、「井口喜源治記念館」という看板が目に入りました。その井口喜源治という名前を、私は地区の牧師会に出た折、明治時代のキリスト教の研究をしている葛井義憲先生から聞いたことがありました。この井口という人は、安曇野の農家に生まれ、中学校の時にキリスト教に出会い、後に高等小学校の教師になり、その時に新宿中村屋の創業者でもある相馬愛蔵が始めた東穂高禁酒会に参加するようになったといいます。当時、その禁酒会が「芸妓置屋反対運動」をしていたことで、学校での立場を悪くし公職を追わる身となりました。しかし、その後、井口喜源治はキリスト教主義の「研成義塾」を立ち上げ、農村の青年女子の教育に力を尽くしたということです。経営は困難を極めたといいますが、県などの公の支援は固辞し、私財をなげうって塾の経営に勤めたといいます。

 この井口喜源治の私塾は34年間、800人近くの生徒を世に送り出したそうですが、彼の死と共に閉鎖されました。そのような、当時は鉄道も通らない山深い地でキリスト教の種を蒔き続けていた人がいたことを、たまたま見かけた「井口喜源治記念館」の看板から思い出し、そこへ立ち寄ることにしました。そこは、本当に小さな記念館で、古い写真や書籍等の並んでいるだけの、決して見栄えの立派な建物ではありませんでした。しかし、そういう小さな記念館がひっそりとそこにあるということが、この明治の一人のキリスト者の生涯を見事に語っているように思えたのです。

 「偉い人にならなくていい。善い人になってください」と井口は子どもたちに教えたといいます。立身出世が教育の主な目的だった時代に「善い人」になれと教えることはなかなか周囲に理解され難いことだったでしょう。しかし、そういう愛を伝えていくことこそ、キリスト者の最もなすべき使命であることを、あらためて思い起こさせられます。人の目にはどんなに小さな種でも、神様の目にはすでに大きな実となって結ばれるその未来が映っている。それが私たちの信仰者の小さな愛のわざから始められ成長していく「神の国」の歴史、教会の歴史なのです。
(2017年11月19日週報より)