自分を捨て、十字架を負う自由

 わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。(ルカによる福音書9章23節)
                   
 「自分を捨て・・・十字架を背負って」歩む、というのが信仰者として歩む心構えである。などと言われて、いったい誰が信仰の道を歩もうと思うでしょうか?正直、このような厳しい言葉がなければ、もっとキリスト教を素直に受け入れて、日本でもキリスト教の人口が増えるのではないか、と思ったりもします。しかし、この年末が近づくと、信仰を持っていない人たちでもクリスマスにはツリーやリースを飾り、クリスマスイベントには多くの人たちが集まり、デパート、スーパーではクリスマスソングが流れ、楽しい年末風景が展開されていきます。それは教会においても同様ではないでしょうか。教会も、この時ばかりは難しい牧師の説教を聞くよりは、イエス様の誕生日をお祝いするためにきれいに飾りつけをし、誰もが楽しめるような催しやコンサートを開いて、出来るだけたくさんの人が来てくれるように、ポスターやチラシで宣伝をすることが主な活動となってきます。

 しかし、ある教会の会報に牧師が次のようなことを書いたというお話があります。「クリスマス。それは自分にとって、苦しみの日だ。華やいだ礼拝が終わると、集会室には、毎年同じ光景が待っている。電飾をまとった小さなツリー、その隣に鶏の唐揚げとパウンドケーキ。夜の雰囲気を創出しようとしてか、昼日中にカーテンが閉じられ、それがまた教会員同士の家族的な雰囲気を高めるかのようだ。最後は、一同で『きよしこの夜』を歌い、和やかに会が閉じられる。私は、いつも通りのクリスマスが終わったその夜、牧師館を一人で飛び出し、当て処もなく高速道路に車を走らせる。」このような文章を教会の会報に載せた牧師がいたと言います。

 おそらくは、クリスマスをただ楽しいお祝いの時として過ごす、世間一般のクリスマスと同じような形でしか過ごしていない教会の現実に、この牧師は絶望的な思いになったのだと思います。確かに、クリスマスはイエス様の誕生を喜ぶお祝いの時でありましょう。しかし、そのクリスマスは神の御子が「自分を捨て」「自分の十字架を負う」ために、人となってこの世に来られた時であること、そのことも事実なのです。私たちがイエス様の誕生を祝うのは、イエス様が十字架を負い、御自分をすべての人間の罪の贖いのために献げられるために来られた、その神様の御子の自己放棄という出来事によって私たちが救われているという信仰の喜び以外のどんな理由でもありません。

 そのイエス様を信じ、その御言葉に従い生きる信仰者は、日々、自分を捨て、自分の十字架を負って歩み続ける・・・それは義務でも責任というのでもなく、ただ自らをイエス様の十字架によって救われた者として、イエス様と同じ神の子として生かされる喜びをもって歩むことの出来る、最も自由な歩みなのです。私たちは無理強いされて自己放棄を迫られ、十字架を負わされる者ではなく、自ら進んで捨てる自由、自分の十字架を選んで負う自由を与えられていることを思い起こさなければなりません。クリスマスを楽しみ祝うだけでなく、自分自身を神様の御子イエス様の愛の御業のために献げていける自由な喜びに満ちた時として迎えましょう。
(2017年11月12日週報より)