最も価値あるもののために

 ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。(ルカによる福音書16章10節)
                   
 先に行われた衆議院選挙において、ある選挙区で票を競り合っていた二人の候補者の票差が、800何票という僅差で当選・落選のラインが引かれたという報道がありました。しかし、その後、その選挙区において無効票が1万票以上もあったということで、何か不正な操作が行われたのではないかという疑惑が広がったという話もあります。その無効票の大半は、選ぶ候補がいない、自分たちが信じて票を託せる人がいないという理由で投じたものであったと言います。それは、無効票ではありますが、今の政治に対する批判票であり、今の政治家の姿に失望しきっている人たちの意思の表れでもあるのではないでしょうか?

 イエス様の「不正な管理人」のたとえは、主人の財産を着服していた僕が、主人からその不正を問われ職を追われそうになったという話から始まります。その時にその僕は、主人に借金のある人々を呼び出し、借用書の額を少な目に書き換えさせ、その人々の借金を減らすような不正な操作をしたのです。そうしておけば、自分が職を取り上げられても、借金を減額してあげた人たちの好意で、どこかに雇ってもらえるだろうと見込んでのことでした。その僕の不正なやりかたを知った主人は、怒るよりも感心して、その抜け目のないやり方をほめたといいます。

 不正な手段を用いてでも「友を作る」その僕の抜け目なさは、損害を被った主人にさえも「うまいことやったな」とほめられるほど、この世的な賢いやり方なのです。しかし、イエス様はこのたとえ話によって「抜け目のないやり方」を教えているわけではありません。このたとえの後でイエス様は「だから、不正にまみれた富に忠実でなければ、だれが本当に価値あるものを任せるだろうか」と言っておられるのです。今度の選挙で白票として投じられた多大な票は、この世的には無効ですが、裏返して言えば、本当に自分の思いを実現してくれる真実の政治家が将来現れることへの期待として投じられたものということも出来ます。自分の将来の生活や人生を本当に任せられる人が出てきて欲しいという・・・。この世の政治の世界においては様々な不正が横行しています。ただ、その不正を自分の利益のためにのみ行う政治家はいずれ誰からも信頼されずに姿を消します。不正を行っても、しぶとく生き残っていく政治家は、やはりどこかで社会のため人のために生きようとする志が少しはあるからなのではないでしょう?

 もちろん、それだから不正を行っても良いということではありません。「不正な富」を用いてでも、人に気に入られることがこの世で評価されるのならば、神様に喜ばれるために自分が損をしても愛を行って生きる努力を惜しまないことこそ「本当に価値ある」永遠の命に続く生き方なのだとイエス様は示されたのです。信仰を守り、主の御言葉に従って歩むことは、この世界では決して評価されたり利益につながるものではなく、多くの人には無益な愚かな生き方にしか見えないでしょう。しかし、主の愛を信じ生きる者には、小さな祈りや小さな愛の業に励むことこそが神様の救いのみわざにつながる、何よりも忠実に守り続けるべき生き方であり、最も価値あるもののために人生を献げる、この世の賢さ以上に賢い生き方なのです。
(2017年10月29日週報より)