医者を必要とする病人

 医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。(ルカによる福音書5章31~32節)
                   
 「手遅れ医者」という落語があります。病人がそのお医者さんのところへ行くと、いつも「手遅れだ。もう少し前に来ていれば」とすぐに匙を投げてしまうというお医者さんが主人公のお話です。ある時、屋根から落ちて大けがを負った男がそのお医者さんの所に担ぎ込まれてきました。すると医者が「ああこれはもう手遅れだ。もう少し前に連れて来ていれば」と言うので、けが人を運んで来た人たちが「俺たちは、こいつが屋根から落ちたのを見てすぐに運んで来たんだ。じゃあ、いつ運んで来れば治せたんだ」と文句を言います。すると医者がこう答えます。「それは、もちろん屋根から落ちる前じゃよ」。

 こんなお医者さんにかかったら、治る病気も治らないというお話なのです。聖書に出てくる律法主義者というのも、罪人を見たら「ああこいつは律法を守らないどうしようもない連中だ。こんな人間には何を言っても無駄だ。こんな罪を犯した奴らは神様に救ってもらう資格はないのだから」とすぐに匙を投げるような考え方をする人たちであります。しかし、イエス様は、当時、律法主義者からははじめから相手にされない罪人と呼ばれる人たちに福音を伝え、「あなたの罪は赦された」と彼らに神様の救いを宣べ伝えたのです。それは律法主義者からは神様を冒涜する行為として非難されるものでした。

 そのような非難に対しイエス様はこう言われました。「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである」と。イエス様にとって、罪人と呼ばれる人々は決して「手遅れだ、もう治らない」と匙を投げるしかない病人ではなく、むしろ福音という治療によってこそ回復することの出来る、治る希望のある人々であったのです。

 健康な人が病人や障がい者の人を特別な目で見て、もうこういう人は治る見込みはない、と自分たちとは関係のない存在として排除し、健康であることをまともな人間の価値だと思い込んでいる時、その人は自分がいつ病気になり障がいを持つ身になるかその可能性について全く考えてもみない、実に狭い価値観に縛り付けられているのです。それこそが神様の前で、最も哀れまれる人間の姿ではないでしょうか。むしろ、病気や障がいを持つ人の方が、お医者さんやヘルパーの人たちが自分にとって必要な存在であることを知り、自分の弱さをその相手に委ねて行く謙虚さを知っています。そのように神様の前で、自分の弱さや欠けをさらけ出して委ねていくことこそ、真実の信仰の姿勢なのではないでしょうか。

 イエス様の目には、私たち人間はすべて罪人であり、病人として映っているのです。しかし、手遅れの病人としてではなく、福音によってこそ癒され救われるべき一人一々として、イエス様の御手にすべてを委ねていける病人、罪人としてであります。主の愛の治療の前で、手遅れになる人間など一人もいないのです。
(2017年10月22日週報より)