見えない事実

 信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。(ヘブライ人への手紙11章1節)
                   
 晴れた日に、よく高原へ出かけることがあります。妻の車で結構長距離の場所へ行くのですが、たいてい夕方になるまであちらこちらを見て周り、日が落ちかけてくる頃に山の上の開けた場所に行き、暮れかけていく空を眺め、星が光り始めるのを待つのです。今頃は「秋の日はつるべ落とし」という言葉通り午後5時を過ぎると山の上はすっかり夕闇に包まれます。星が一つ二つ見え始めると、もう数十分後には数えきれないほどの星が輝きはじめるのです。妻が夜空を撮影するためにカメラを三脚に固定し、忙しくしている間、私はただ何もせず頭上に瞬く星々を眺めて過ごすのですが、本当に月もなく、周囲に町の明りも届かない所では天の川がボウッとした乳色に煙って大空を横切っているのが肉眼でもはっきり見えてきます。

 こんなに数多くの星は、街中ではけっして見られません。私にとっては最高の時間を過ごしているわけですが、しかし、私の目に映る無数の星も、決して私の目に見えているそれだけが全部というわけではありません。妻が高感度のカメラで撮影した星空には、私の肉眼では見えない、さらに多くの星の光が全天を覆うようにして映っているのです。その写真を見ると、私たちの目に見えない星々が実際に数多く存在する、そのことをあらためて教えられるのです。

 そのように星空を堪能してやがて山から降ってくる時、夜の山道は街灯もなく車のヘッドライトだけが頼りなのですが、そのヘッドライトの明りが時折ウサギや鹿や、時にはキツネといった動物の姿を照らし出す時があります。彼らは車の明りに驚いてすぐに林の中に隠れてしまいますが、その一瞬垣間見た動物の姿から、普段は人間の目には見えない数多くの生き物がそこにはいるのだということにも気づかされます。このように、私たちの世界は、決して目に見えている物や事柄だけがすべてではなく、むしろ私たちが目で見ている世界は実に限られたわずかな部分でしかないのではないか、と思わされます。

 「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認する」ことだ、と聖書は語っています。また「一寸先は闇の方がいい」といった人がいます。それらの言葉は、私たちの人生も私たちの住むこの世界も、私たちが目で見ていることだけ、私たちが手で確認しているものだけがすべてではなく、むしろ目で見たり手で触れることの出来る物はほんの一部分でしかない、そのことを指し示しているのです。今私たちの世界は、本当に先行きの見えない、いつ戦争が起きるのか分からない、実際に戦争やテロによって多くの人の命が失われ、また、そのような現実への恐れや不安が人と人、国と国の間に深い疑いや憎しみの壁を築き上げてしまっている状況ばかりを目にせざるを得ない世界です。しかし、私たちはイエス・キリストによって、すでにこの世界に、私たちの人生に、神様の愛の光が注がれ、誰もがその愛の光から外されてはいない、その目に見えない事実を聖書から告げ知らされています。たとえ、私たちの世界が「一寸先は闇」であっても、その闇の中に見えない神の愛の光がすでに輝き続けている、その事実を信仰をもって確信し確認できる者として、私たちは主イエスの御言葉に希望と信頼をもって歩み続けられるのです。
(2017年10月15日週報より)