消え去るべき罪の残像

 一人の罪によって多くの人が死ぬことになったとすれば、なおさら、神の恵みと一人の人イエス・キリストの恵みの賜物とは、多くの人に豊かに注がれるのです。(ローマの信徒への手紙5章15節)
                   
 先週の月曜日、アメリカのラスベガスで、野外コンサートが開かれていた会場に、隣接するホテルの窓から銃が乱射され、58人の人が命を奪われ、500人以上もの人たちが重軽傷を負うという大惨事が発生しました。犯人の60代の男は、警察が突入する前に自ら命を絶ったということでした。その犯人の死により犯行の動機も不明のまま、アメリカでは多くの人たちが悲しみの中でこの1週を過ごすことになったと思われます。このたった一人の人間の、他者の命に対する甚だしい軽視、あるいはこの世界に対する悪意と憎悪は、犠牲になった人たちの家族や友人、またこの事件の報道に接する私たち一人一々の心にも、拭い去れない大きな傷、不安を刻み付けることになったことも事実でしょう。

 人間の世界は、このような人の命に対し無感覚になってしまう、また自らの命さえも何の価値もないかのように扱う、そういう命への冒涜的所業が跡を絶たない現実に満ち溢れているように感じます。それは、国家間の戦争、また政治的宗教的なテロ、また個人の犯す暴力や殺人といった犯罪、そのすべてにおいて共通する罪の問題であると言えるでしょう。

 聖書は、このような罪の根源を遡らせ「一人の人によって」罪が世に入ってきたと語っています。神様が最初に創造した人間アダムが、神様の命に背き禁断の木の実を食べてしまった、その時からその後に生まれて来たすべての人間もアダムの罪を負い、その罪の結果として死ななければならない運命を決定づけられた、そのように伝えているのです。実に不条理なお話だと思わざるを得ませんが、実際、人間の歴史は神様が愛をもって創造された命に対する人間が冒涜的所業によって人間が罪を犯し続けて来た歴史であると言っても、決して過言ではない、というのもこの世界の真実ではないでしょうか。

 「一人の人」の罪は決してその一人の人間の問題だけではなく、その人間に関わる周囲のすべての人間を巻き込み、罪の連鎖を生んでいく、憎悪に憎悪、復讐に復讐という途絶えることなき罪の循環を繰り返させていくものなのです。しかしまた聖書は「一人の罪によって多くの人が死ぬ」この罪の循環する歴史が「一人の人イエス・キリスト」によって断ち切られたとも伝えています。「裁きの場合は、一つの罪でも有罪の判決がくだされますが、恵みが働くときには、いかに多くの罪があっても、無罪の判決が下されるから」だ、と言うのです。

 この恵みとは、罪なき神の御子イエス様が、私たちすべての人間に成り代わり自らを神様の怒りの裁きである十字架に掛け、その御子の命をもって人間の罪の歴史に終止符を打ってくださったということ以外のなにものでもありません。このイエス・キリストの十字架によって救われていることを知る者にとっては、未だこの世界に起こる罪の循環も、すでに私たちを恐れさせ脅かす力はない、むしろ主の十字架の赦しによって断ち切られた消え去るべき過去の罪の残像に過ぎないのです。
(2017年10月8日週報より)