見えないものを待ち望む

 わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。(ローマの信徒への手紙8章25節)
                   
 今年の夏は非常に雨が多く、洪水や土砂崩れが頻発しました。また北朝鮮のミサイルが立て続けに2度も日本上空を飛来するという出来事も起こりました。さらにメキシコでは大地震が連続し、何百人もの人たちが犠牲となるという痛ましい状況が続いています。このように私たちの世界は、いつどのような災いや事件が起こるか分からない、いつ核戦争が起こり日常の生活も平穏な家庭も財産も命さえも失うかもしれない、そういう大きな不安の影に覆われていると言えます。

 ただ気が付くと、もう彼岸花があちらこちら背を伸ばし赤い花を咲かせ、秋の到来を私たちに告げる季節となってきました。様々な災害や不安を呼び起こす事件の多発する中、自然の草花は何事もなかったかのように、時が来ればかならず芽を出し花をつけ、その季節ごとに約束したかのごとく姿を現します。私たちが目まぐるしく変わる世界の状況に目を奪われ、『対話より圧力』というスローガンを声高に叫んで、不安や恐怖のために互いに対立の壁を高く築きあげていく、そういう混乱と不信感の只中にあっても、私たちの気づかない大きな自然のサイクルは、なすべき時になすべきことを着実に果たし続けていることをあらためて思わされます。 「今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ」栄華を極めたこの世の権力者も及ばない装いに包まれている、とイエス様は教えられました。時を知っている自然の草花の方が、私たち人間が「明日を思い悩んで」こうしようああしようと慌てふためく姿を不思議に思っているのではないでしょうか?

 先日、朝霧高原という所へ出かけてきました。富士山が目の前に迫って見える観光地ですが、その時は雲が次々に湧いてきて富士山を隠し、なかなか富士の全貌を眺めることが出来ない状態でした。それでも、雲の上に山頂が姿を現したり、また山頂が雲に隠れていても、その稜線が美しく裾野を広げている光景は、富士山の大きさを知らせるには十分の眺めでした。しかし、雲がすっかり晴れて、見事な富士山の姿が見たいという未練が残り、道の駅の周りをしばらく散歩し、富士山が大きく真正面に見える原っぱのベンチに座り、雲に見え隠れする山の様子をうかがっていたのです。もう日も暮れかかり、7割程度の富士山の姿を見ることもできて、まあ今日はこれくらいが限度かな、と思い立ち上がろうとしましたが、生来のあきらめの悪さゆえ、折角来たのだからもう少し眺めていようとまた座り直したのです。雲がもう山の頂上を覆い隠すように湧いていたので、もうダメかなと考えていると急にその山頂を覆っていた雲がゆっくりと下がってきて、さらに薄くなっていくのが分かりました。それから数分後には、夕日に映える富士山の全景が目の前に雄大に聳えている景色を目にすることが出来たのです。その時「目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望む」ことが大事なのだという聖書の言葉を実感させられたのです。雲が厚く覆っていようと、富士山は不動の存在としてあり続けている、それと同様、神様の愛は不動のものとして、私たちの世界を滅びにではなく救いへと定められている。その主の愛への信頼が私たちをあきらめさせないのです。
(2017年9月24日週報より)