世の光として生きる

 あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。(マタイによる福音書4章14節)
                   
 イエス様は弟子たちや、ご自身の教えを聞く人々に向かい「あなたがたは世の光である」と言われました。信仰を持って生きる者は「世の光」となって「すべてのものを照らす」存在なのだということなのです。このような言葉の前で「私はとてもそのような立派な信仰は持っていない。世を照らすほどの自分自身誇れるものもないし、世の中から称賛されるほどの素晴らしい働きも出来ないし、世の中を動かすほどの財力も肩書きも持ってなどいない」と自信を失ってしまう人の方が多いのではないでしょうか。

 知多半島の野間灯台という観光スポットに行ったことがあります。そこは今は「恋人の聖地」と呼ばれていて、いつの頃からか、その灯台を囲っているフェンスに恋人同士が錠をぶらさげて固い愛を誓うということが習わしとなったと言います。その錠がたくさんぶら下げられたため、フェンスが倒れるというアクシデントも起こるほどになり、現在はその錠を掛けるための専用の柵が作られています。それほど多くの恋人同士がその灯台に集まり、夕暮れのロマンチックな雰囲気を楽しむ姿が、そこかしこに見られる場所なのです。

 しかし段々と日が暮れて、夕日も水平線の向こうに沈み、あたりが夕闇に包まれてくる頃は、そのような恋人たちの姿もいなくなり、次第に周辺は真っ暗になっていく。そのような時刻なって、ようやく灯台が暗い海に向かって明るい光を放っていることに気づかされるのです。灯台がそこに立っているのは、多くの恋人たちが集まって錠を掛ける「恋人の聖地」と呼ばれるためではなく、また夕日に映えてロマンチックな雰囲気を醸し出すためでもなく、夜、暗い海を航行する船の安全を守るため光を放つことなのです。その当たり前の事実が、周囲を深く濃い闇が覆い尽くす時になって、初めて私たちの目に明らかになるのです。

 灯台は「灯台もと暗し」という諺どおりに、自らにスポットライトを当てることはありません。灯台は周囲のものを明るく照らす存在として、自らは濃い夜の闇の中に立ち続け、その役割を全うするのです。それと同様に、私たちキリスト者、教会の存在も、この世界が濃く深い闇に覆われる時にこそ、その暗い闇の中に「世の光」としての役割を果たしていけるのだと言うことが出来るでしょう。

 自らに注目を集めるため、ロマンチックな装いをもって人々の興味を誘うためでもなく、むしろ世の中の評価や関心によって右にも左にも逸れることなく、ただ主イエスによって「世の光」として信仰の希望を掲げ立ち続けて行く、それ以上でも以下でもないのが私たち教会の本当の価値なのです。世界中が力を求め、力を誇り、互いに自らを偉大なもの強大な存在として目立たせることに躍起となり、それゆえ弱い小さな存在を軽んじ踏みつけにする、そのような深い闇に覆い尽くされようとも、私たちは主イエスの愛によって救われた者として、自分自身の小ささ弱さをも「世の光」として役割を果たすための賜物であることを信じ、世の小さく弱い立場の人々と共に主の愛に生きる一人一々として、主の栄光を現していきましょう。
(2017年9月17日週報より)