降りつくされた主

 キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。(フィリピの信徒への手紙2章6~7節)
                   
 8月11日は「山の日」という祝日でした。昨今、登山ブームの影響で若者から高齢者、また男女の別を問わず、山に登る人たちが増えてきているようです。昨年もNHKのBS放送で「山女日記」という登山ガイドの女性を主人公にしたドラマが放映されましたが、そのドラマの1場面で次のような会話が交わされていました。山へ登る途中、大きな池のある所に来た時、今から登ろうとしている山の姿が池の水面に逆さに映っているのを見て、登山客の一人がその水鏡に映った山の頂上を指差しこう言います。「これから、あの山の上まで登るんですね」。そう言った後ふと気づいて「でも下のほうを見ながらこんなこと言うのは可笑しいわね」と登山客が笑うと、登山ガイドの女性がこう答えます。「人生も山登りと同じで、頂上に登ったら今度は降っていくことも考えなければいけません」と。

 それは、池の水鏡では山の頂上が一番下にある、そういう光景を見て交わされた会話なのです。人生も実は今まで頂上だと思っていた所が、水鏡に映すようにして見れば一番下にあると気づかされることがあると言うことです。必死に登りつめていった所が一番低い所だった・・・自分が1番になりたいという欲望に駆られ、他人を蹴落としてまで手に入れたいと思っていたこの世の地位も名誉も権力も、いずれはまた他の人間によって自分から奪われていく束の間のものに過ぎない。そのような束の間の頂上に執着し争い合う人間の世界は、実は1番どん底の谷間に向かって滑落し滅びに向かうしかないのではないでしょうか?

 そのような束の間のものに執着し続け下へ降っていくことの出来ない、それゆえ互いに一番の座を争い合って滅びて行かざるを得ない、その私たち人間の世界に、神の御子イエス様が「神と等しい」その至上の栄光の座を降って「人間と同じ者」になられた、それが聖書の告げる救い主の姿なのです。今、核の保有において「最強である」ことを誇りとする大国と、その大国と並び立とうとして核ミサイルの開発に躍起になっている独裁国家との対立が、再び世界中を巻き込む戦争の不安を煽りたてている現実があります。しかし、至上の栄光の座を捨て、自らを私たち人間と同じ姿となって世に降って来られた神の御子の愛による最大の決断の前では、どんな国家間のナンバー1争いであっても、中国のたとえ話にある「かたつむりの角の上で争う」極小の国同士の取るに足りない出来事に過ぎないと言えるでしょう。

 私たちは信仰において、この世界を水鏡に映すように見ることが出来るのです。私たちにとってどんなに絶望的に見える状況も、すでにイエス様がこの世において最悪の十字架にかかられた、それほどまでに人間として徹底的に降りつくして下さった、そのことによってすべての人間の罪が贖われた、そのような最高の出来事が起こったことを知るならば、もはや何一つ恐れるものはないのです。安心して私たちも降っていくことが出来るのです。そして、この世界が明日滅びるとしても、ルターが言ったように「今日、リンゴの苗を植える」希望と勇気によって歩み続けていく、平和の福音を宣べ伝えていく、その喜びの使命を果たしていけるのです。
(2017年8月20日週報より)