互いに大切にし合う信仰

 あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。(ヨハネによる福音書4章21節)
                   
 昨年、木曽川沿岸をドライブしていた時、「乙姫大橋」という橋を見かけました。その橋の上から見下ろす川の中央に「乙姫岩」と呼ばれる岩礁があり、地元の伝説ではその岩礁に乙姫が住んでいたという話が伝わっているそうです。その乙姫岩から遡った上流には、浦島太郎の伝説が残る「寝覚めの床」という奇岩の景勝地があるのですが、その浦島太郎が木曽川の氾濫に呑みこまれ、下流の乙姫岩まで流され、そこで乙姫に助けられたという言い伝えが、地元ではポピュラーな浦島太郎のお話になっているというのでした。

 このような昔話でも、地域によっては様々な形で伝わっており、その内のどれが本当の話でどれが偽りかというような判断は誰も出来ません。その土地その土地の伝説を親から聞いて育った人たちには、それぞれ自分が聞いた話が本物であり、心に刻み付けられた故郷の風景のようなものとして残っていくのですから。

 聖書にはイエス様がサマリアの女性と出会い、言葉を交わすうち、彼女からこのように質問される場面が出てきます。「わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています」と。その質問は、サマリア人の先祖とユダヤ人はともともと同一民族であったのに、サマリアがアッシリアに征服され、そこに異民族が入り込み混血した、そのような歴史からユダヤ人とは別の民族として礼拝する場所も地元のゲリジム山に定めた、という事情から発せられたものでした。

 同じ神様を礼拝しながら、一方はゲリジム山、一方はエルサレムこそが正しい礼拝場所であると考え、宗教的にもサマリア人とユダヤ人との間には深い溝が出来、何百年間も互いに敵視し合う対立が続いていたのです。そのサマリアの女性の質問にイエス様はこう答えられました。「あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る」と。

 キリスト教の中にも教派の違いがあり、それぞれが自分たちの考え価値観を持っています。そしてそれが対立、争いの種となることもしばしばあります。ニーメラーという第2次大戦中、ナチスに抵抗し収容所に囚われの身となった牧師が、その収容所で小さな礼拝を守り続けた時、そこには「丁度諸国家のごとく」カルヴィン派、ルター派、英国国教会、ギリシア正教等の各教派の人々が集まっていたと言います。ニーメラーはそこで皆が「孤独な個人同士であることを認め合い」自分たちに残されていたことは「神の言の周りに集まるということ」以外にはなかったと言っています。そしてそこに「唯一の聖なる教会」が出来上がったのだとも。

 そういう信仰が、どんな生まれの違いも、価値観の違い思想の違い、民族人種の違いももはや互いを隔て憎みあう対立の壁とはせず、ただ神の御子が人となり給うたキリストのもとへと招かれた者同士としてお互いを尊重し大切に思う、真実の平和と一致への道へと私たちを歩ませる力となるのです。そのキリストの愛と和解の信仰こそ、私たちの教会がこの世界に指し示すべき真実の平和への道標なのです。
(2017年8月13日週報より)