見るだけでなく観察する

 だから、彼らにはたとえを用いて話すのだ。見ても見ず、聞いても聞かず、理解できないからである。(マタイによる福音書13章13節)
                   
 今年、広路教会は、明治時代に名古屋第一美普教会として誕生してから130年目を迎えます。この130年前、イギリスではあの世界的に有名な名探偵シャーロック・ホームズが誕生しています。小学生の頃、学級図書で子ども向けのホームズ物を読みふけっていた思い出がありますが、そのシャーロック・ホームズの台詞に「君はただ見ているだけで、観察をしていない」というものがありました。ホームズは初対面の相手に、その人がどこに住んでいて今まで何をしてきたのかを一目で見抜くという特技を持っていますが、それは人と同じものを見ていても、人が注意を向けないささいな事柄に目を留め、そこから推理をめぐらして答えを見出すのです。

 イエス様は神の国の教えを語るのに、様々な「たとえ」を用いて語られたことが福音書に述べられています。そして、なぜその教えを「たとえ」で語るのかと弟子たちに問われた時、次のように答えられたのです。「見ても見ず、聞いても聞かず、理解できないからである」と。このイエス様の答え自体が「たとえ」のように謎めいたものでありますが、目で見たり耳で聞いたりしても、神の国の教えは決して理解できない、シャーロック・ホームズ流に言えば「見ているだけで観察していない」というのがイエス様の話を聞いている聴衆の現実であったのでしょう。

 それは決して「彼らには言っても分からないから」というような聴衆をバカにした態度をイエス様がとられたからではなく、むしろ、イエス様の話を聞いている側の人間が「きっとこの人はこういう話をしてくれるに違いない」という前提をもって聞く、その前もって聞く内容を自分たちで決めてしまっていることが「見ても見えず、聞いても聞かず」という心理的な壁となってしまっていた、ということが「たとえ」でしか人々に語られなかった理由ではないでしょうか。

 法隆寺の三重の塔を再建した名棟梁のもとに弟子入りをした人が、棟梁から道具の使い方すら教えてもらえずに、ただ一度向こうが透けて見えるほど薄い鉋屑を渡されたということです。その人はその鉋屑を壁に張り、同じような鉋屑が出るまで刃を研ぎ、削り続けたといいます。その人もまた自分が棟梁として弟子を持つ身になり、次のようなことを言われました。「教わったものは、自分のものじゃないからな。結局、身につかないんだよ」「大工の仕事というのは、言葉で教えることができないんだよ。技術は体の記憶だからな」と。

 私たちにとって聖書の言葉もイエス様の教えも、ただ教科書を読んで理解するような「教わる」ものではなく、この人だったらどこまでもついていきたいと思える、その相手への信頼によって、その一言その一挙手一投足に心を向けて観察し続ける、そのように自らがイエス様の御足の跡を追跡していくことこそ信仰なのです。イエス様は私たちの人生に、そのような「たとえ」を、そこかしこにヒントとして用意してくださっている、そのことを信じ私たちはさらに自らの信仰の目と耳を研ぎ澄ましていくべきではないでしょうか。
(2017年7月16日週報より)