弱さに同情する大祭司

 この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。(ヘブライ人への手紙4章15節)
                   
 大祭司という職務は、すべての人間の罪の贖いのために、年に一度、神殿の最も奥にある「至聖所」に入り犠牲を献げて執り成しの儀式を行うことを唯一赦された立場であります。その至聖所は、大祭司以外の何者も立ち入ることが赦されない、禁断の場所でありました。しかも大祭司自身も人間であるかぎり、神様がおられる至聖所に入る時は、神様とじかに出会って「死を招く」ことのないように、上着の裾に着けられた鈴が鳴るようにするという規定もありました(出エジプト記28章33~35節)。神様が鈴の音を聞き大祭司が入ってきたり出て行ったりするのを確認し、御自身が大祭司と直接鉢合わせしないようにする、という配慮からだったと思います。それほど、神様と人間とは、聖なるものと俗なるものとしてはっきりと境界線が引かれ、神様も直接人間に出会われたり、触れられることはなかったのです。

 「熊鈴」というものがありますが、それは登山者が熊と遭遇しないように身につけ、鈴の音を熊が聞いて人間に近づかないようにするためのものです。熊も人間を恐れているので、山の中でばったり鉢合わせした場合、熊がパニックを起こし人間に襲い掛かってくるからです。熊と人間の間にも、決して直接出会ってはならない一線というものが引かれているのです。

 神様と人間は、全き義なる者と罪によって汚れた者という一線が引かれ、唯一大祭がその両者を結ぶ接点として執り成しの献げものをする役割を担っていました。しかし、大祭司も罪によって汚れた者であるかぎり、神様と直接合いまみえることは不可能だったのです。その大祭司の役割を神の独り子であるイエス様が果たされた、それが十字架のおいて成し遂げられた贖いのわざであります。しかも、神の独り子、神と等しくあるべき方が人間となってこの世に現れ「罪を犯さなかった」ということ以外は、すべての人間と同じく「試練」に遭われたと聖書は告げています。

 「この大祭司」は私たち人間の弱さをご自身が罪なき身でありながら負われ、その弱さに徹底的に同情し、人間に触れられ人間を癒される方として登場されたのであります。その大祭司であるイエス様の贖いのわざ十字架の犠牲によって、もはや私たち人間は直接神様と出会い、神様の愛と恵みを自分自身に注がれていると言う喜びに生きることが出来る者とされたということです。
 ですから、「時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づ」くことが赦されているのだ、と聖書は語っているのです。私たちは自分の弱さや欠けゆえに苦しみ悩むことの多い人生を生きなければなりませんが、イエス様ご自身がその弱さを知られ担って下さる、その限りない愛により、弱くあることも罪や過ちを犯さざるを得ない日々をも、すでに「試練」として与えられ、かならず神様の助けが示される恵みに向かって歩む途上のものとして耐え忍ぶことが出来るのです。私たちの人生における苦しみ悩みも、神様がイエス様を通してすべて鈴の音のように聞いてくださり、すべてに助けの御手を差し伸べられる恵みの試練なのです。
(2017年7月9日週報より)