一人ひとりの上に降る霊

 はっきり言っておくが、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。(マタイによる福音書18章19節)
                   
 あるテレビ番組で、十代の頃アイドルグループの一員としてデビューした女優さんが、このような体験を語っていました。アイドルグループとしてデビューしたのはよいけれど、いつも事務所が作り出したイメージで自分が動かされている、自分がしたいことより、その作り出されたイメージで行動しなければならない。そのことに息苦しさを感じていた時、そのグループの一人一々を個別に写真撮影するという仕事が入ったそうです。有名な写真家がグループの一人一々を撮影し、自分の番が回って来たので、カメラの前で笑顔を作ったところ、その写真家がこう言ったというのです。「君には笑顔が似合わない」と。アイドルの一員として売り出した女の子にとって「笑顔が似合わない」という言葉は、致命的な欠陥を指摘されたようなものであったのですが、言われた本人はその時、「ああ、作り笑いをしなくていいんだ」という解放された気持ちでその言葉を受けとめたといいます。その写真家の目に、自分の本当の姿をさらして良いという、自分の個性を肯定してもらった喜びを感じたのだということです。

 私たちもクリスチャンだから、いつも人と仲良くしていなければならない、人前でニコニコしていなければいけない、というのではありません。信仰を持っていても、泣きたい時も怒りたい時も、落ち込む時もあるのが私たちの現実なのですから。ただ、そのような自分の感情に左右されることが多い私たち一人一々を、イエス様は決して軽んじられず、またその一人一々の個性を弱さも失敗を含め、すべて肯定し見つめて下さっているのです。聖霊降臨の時、聖霊が炎のような舌となり分かれ分かれに現れ、弟子たち一人一々の上にとどまったとあります(使徒言行録2章3節)。私たちは、何か一つの思想や価値観によって束ねられ、皆が同じ顔をし同じ行動をとらなければならない、そのような集団として教会が出発したのではないことを教えられます。むしろ、一人、一人に聖霊が分かれて降ったのです。それは、その人にしか現せない聖霊の働きがあり、皆がそれぞれその個性を用いられ神様の福音を語り行動する、主体的な存在とされていった、それが教会の群れの本来の姿であった、ということです。

 厚い雲に覆われた曇天のもとでは人の影も地上には映りません。暗い雲の影が地上を支配し、人の影はまったく隠されてしまいます。しかし、太陽の光が降り注ぐ時には、私たちの影も一人一々皆個性ある形で地上にはっきりとその陰影を刻まれるのです。それと同じように、私たちはもう、罪の影が私たちの個性も自由も覆い隠し、自分が何者かも見えなくさせる、そのような罪の支配から聖霊によって解放された一人一々として、自分を自分としてありのままに現すことが出来る者とされているのです。「二人が地上で心を一つに」するのは、違いのある者同士が、互いにその違う相手をあるがまま受け入れ合い、その相手のために自らが主体的に祈り行動する、神の愛によって互いの個性を尊重し合う姿勢に他なりません。教会はそのような誰もがその個性をもって主体的に支え合い祈り合う喜びの群れなのです。
(2017年6月1日週報より)