天の国は私たちの間に

 天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。(マタイによる福音書13章44節)
                   
 「猫の皿」という落語に、骨董の目利きの商売人が、ある茶店で猫にエサをやるため使っている皿を見て、それが大変高価な名品であることを見抜き、三両で猫を譲ってほしいと茶店の主人に頼む場面があります。商売人は猫ごとその名品の皿を手に入れようとしたのです。ところが、猫を3両で譲った主人は、その皿は売れば何百両にもなるものだから、と断ったのです。商売人は驚いて「それだけ値打ちがあるのを知っていて、その皿をどうして猫の皿なんかに使うんだ?」と訊きます。すると主人がこう答えます。「これで猫にエサをやっていると、時々、猫が三両で売れるで。」

 イエス様のたとえ話にも、似たようなお話があります。ある人が畑の中に大変なお宝が隠されていることを知って、その畑の持ち主がそのことを知らないのをよいことにして、自分の持ち物を全部売り払ってその畑を手に入れるというたとえ話です。こう書くと、ずいぶん人の悪い話をイエス様がされたような印象を受ける方もおられるでしょう。しかし、イエス様がおっしゃりたかったことは、人の無知につけこみ、上手く立ち回って利益を得よ、という処世術などでは決してありません。「天の国は次のようにたとえられる」とイエス様は言っておられるのです。つまり、畑の中に隠された宝のように、天の国は誰にも知られない、目に見えないところなのだ、とイエス様は教えられたのでした。しかし、その天の国を発見したならば、人は自分の持つものすべてを、人生のすべてを献げてもそれを手に入れたいと思う、それほどの価値をそこに見出すだろう、と。

 また、この天の国は、私たちの世界の外側のどこかに、ユートピアのような夢の国なのでもありません。私たちがそれを見出すのは、私たちが自分の持っているものを売り払うことで手に入れることが出来る、実に身近なところにあるということです。それは、具体的に言えば、私たちの信仰そのもののことだと言えるのではないでしょうか?イエス様は、ルカによる福音書の17章では次のように語っておられます。「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」と。

 私たちは信仰において、すでに「天の国」を発見した者として、また「神の国」を私たちの只中に見出す者として生きている存在なのだと思います。傍目には私たち信仰者は、猫の皿のように大して価値のない二束三文の値打ちにしか見積もられない、自分でもそのようにつまらないものにしか思えない、そのような引け目を感じることの多い一人一々かも知れません。しかし、イエス様には、私たち一人一々こそが、ご自身の十字架の贖いに値する者たちとして見積もられ、その私たちの間にこそ、最も価値ある天の国というが宝物が隠されていると知られているのです。その私たちの信仰が、猫の皿のように安く買いたたかれるようなものであってよいはずがありません。その信仰こそがこの世界のなにものよりも価値ある宝として与えられている、その喜びをもって生きる姿こそ最も力強い証しとなるのですから。
(2017年5月28日週報より)