神様の道具として

 なぜなら、罪は、もはや、あなたがたを支配することはないからです。(ローマの信徒への手紙6章14節)
                   
 「らくだ」という落語があります。長屋に鼻つまみ者のやくざな男がいて、その男が急に死んでしまった、という所から始まるお話なのです。そのやくざな男の友達が、長屋の大家に葬儀代を出させるため、その男の死体を持ち込んで「かんかんのう」という踊りを踊らせる場面が出てきます。もちろん死体は自分では動きませんが、友達がその体を操って踊らせ大家を脅すのです。大家はその気味の悪い踊りに参って、しぶしぶお金を出すという展開なのですが、「死ぬべき体を罪に支配させ」る(ローマ信徒6章12節)とは、この落語の中の死んだ男のような姿なのだと思います。この男はすでに死んでいるのですから、悪いことは出来ないのです。それを悪い友達が死んだ男を躍らせて、男は全くの操り人形として、その体を金もうけの道具にされてしまっているわけです。

 わたしたちも、ともすると、この落語の死んだ男のように、罪という過去の悪い友達に自分の「死んだ体」を勝手に使われてしまうことがあるのではないでしょうか?私自身、自分の過去の様々な過ちや失敗を思い出すたびに「ああなんて自分はダメな人間なんだ」と落ち込むことがしばしばあります。今でも何かちょっとした間違いをしでかすと、「ああ、やっぱり自分はダメなんだ」と自分に対しマイナスイメージしか持てなくなり自己嫌悪に陥ってしまいます。過去の「自分はダメな人間だった」という意識が、今も自分の体も心も支配し「お前は結局、何の役にもたたない無用な存在なのだ」と囁きかけてくるのです。

 もともと、勉強もスポーツも苦手で何に対しても消極的だった私ですが、歳を重ねるたびに、若い頃出来たことも、ますます出来なくなった、という思いに「もう自分はどんどんダメになっていく」という嘆きを感ぜざるを得ないということも事実です。しかし、そのような自分が、すでにイエス様の十字架の死と共に「古い罪に支配された体」が死に、もはや「自分はダメだ」と自分を落ち込ませる罪の力は無力化されていると聖書から知らされる時、その自分に対するマイナスイメージからも解放されていくことを実感します。

 私たちは、自分の弱さも失敗も挫折の経験も、もはや過去の罪に支配されている自分が「死の踊り」を踊らされていることのように失望落胆する必要はないのです。むしろ、すでに私たちを新しい復活の命へと導くために、主が共に担い慰め立ち上がらせてくださるために与えられる弱さ失敗挫折なのだと信じ、堂々とありのままの自分を生きて行けるのです。「自分はダメだ」という思いに囚われる時も、そのダメな自分がすでに神様によって用いられ、その弱いところも不完全さも主の愛に満たされるための器として、主がよりよく使って下さる。そう信じる時、私たちは「ああダメになった」とか「もう何の役にもたたない」とか過去の自分の姿を現在の自分の現実と比べたり重ね合わせて嘆くことからも解き放たれます。同じ道具でも「死の踊り」を踊らされる罪の道具ではなく、主の愛によって「命の喜びの踊り」を自らの信仰をもって踊ることの出来る道具として、私たちの体も心も神様のみこころをこの世にあらわすために献げていきましょう。
(2017年5月14日週報より)