両方とも育てる神

 主人は言った。『いや毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかも知れない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。・・・』(マタイによる福音書13章28節)
                   
 「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」これは今年度の広路教会の年間聖句として選んだ御言葉です。イエス様が、私たちすべての人間の罪の贖いのために、ご自身罪無き身を十字架につけ、ご自身の死によって私たちを罪と死の支配から解放してくださった、その一粒の麦としてイエス様が死なれたことを覚えて、その実りである私たち自身、主の愛を一人でも多くの人、未来の世代の人々へ伝え、豊かな信仰の群れを生み出す希望をもって歩んでいきたいと願っています。それほど大きな主の愛によって、私たちは「多くの実」として今、信仰の恵みに生かされている一人一々であります。そして、やがてまた同じ主の愛の御手によって永遠の御国の倉に、喜びの収穫として刈りいれられ収められていく大切な一人一人であることを私たちは信じています。

 しかし、この私たちの生きている世界は「毒麦」がはびこり「麦」よりも急速に成長し、この世界全体が毒麦だらけになってしまっている現実があります。シリアでは化学兵器により罪のない子どもたちが犠牲になり、北朝鮮では飽くことない核実験やミサイルの開発によりいつでも戦争を起こせると身構え、アメリカ・日本をもその攻撃目標に入れています。それに対しアメリカもシリアの基地に独断で空爆を行い、北朝鮮に向けて武力による威嚇をも躊躇しない姿勢をあらわにしています。

 このような状況の中で、どの国も自分たちとは思想も宗教も価値観も違う相手を「毒麦」と見做し、その存在を一刻も早くこの世界から抹殺することのみを正義として互いに争い合い、自分たちだけの麦畑を守ろうとしている・・・しかし、そのこと自体が自らを毒麦化していることに誰も気づくことがないのです。毒麦とは私たちすべての人間の「自分さえ良ければ、自分たちさえ平和であれば」と渇望してやまないエゴイズムの象徴そのものなのではないでしょうか?

 イエス様はたとえ話の中で、麦畑の中に蒔かれた毒麦をあわてて抜くことで麦も一緒に抜くことを戒め「両方とも育つままにしておきなさい」と教えられました。私たちは自らが毒麦に取り囲まれ、折角イエス様の愛によって麦として成長させられている自分自身を見失い、毒麦化してしまうことを恐れなければなりません。しかし、私たちがそのように毒麦と一体化してしまいそうになる、そのような現実の中でもイエス様は途方もない愛と忍耐をもって麦として成長し豊かな実を生らせるまで待ち続けてくださっているのです。私たちが毒麦と見做している相手も、実は、本当はイエス様の愛によって共に育てられている大切な麦の一本一々なのかも知れません。だから、私たちは主の一粒の麦の死によって実らされた多くの実として生きることをあきらめてはなりません。互いに違った価値観、考え方、宗教観を持つ者同士であっても、それを排除の理由として憎み争うのではなく、互いを神の愛のもとで共に育って行ける人間同士として、やがては永遠の御国へと収穫されていく価値ある一人一々として尊重し合える世界を祈り求めていくべきなのです。
(2017年4月30日週報より)