生きている者の神

 …『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。(マルコによる福音書12章26~27節)
                   
 私の父は7人兄弟姉妹の長男として生まれました。下に5人の妹と1人の弟が生まれたのですが、この父方の叔母のうち、私が会ったことのない叔母が2人います。私が生まれる前に若くして亡くなってしまった叔母たちです。私は他の叔父、叔母のことは小さい頃から知っていて名も顔も覚えていますが、この2人の叔母の顔も名前も知らないのです。父から話は聞いたことはあるのでしょうが、その名前も私は忘れてしまいました。血のつながりがある親戚であっても、会ったこともない人たちはこちらの記憶にも残らず、また名前を聞いても忘れ去ってしまうことが多いのです。

 人は死んで世間から名も顔も忘れられた時が、2度目の死だと言います。たとえ親戚縁者であっても、過去に死んだ人、自分が会ったこともない人は自分にとっては2度死んだ人として記憶にも残りません。出エジプト記に、モーセの前に神様が姿を現した時、「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」と名乗ったという記事があります。その箇所をイエス様は復活の証明として引用されました。

 私は以前このところの意味が良く分からなかったのですが、自分の叔母たちのことを考えると、私たち人間は生前余り付き合いのなかった相手は、親類縁者であってもその顔や名を忘れてしまいますが、神様は私たち人間のことを決して忘れてはおられない方なのだということを、イエス様はおっしゃられたのではなかったか、そのことに気づかされたのです。アブラハムもイサクもヤコブも、イスラエル民族には忘れ難い自分たちの歴史のルーツに当たる人名であることは確かですが、神様はご自身を「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神であった」と過去形で現したのではなく、今も「アブラハム、イサク、ヤコブの神である」と言われたのです。彼らをたんに過去に死んだ人間としてではなく、今も神様ご自身の記憶にありありと思い出される人として、さらにはご自身忘れ難い名として「生きている」彼らを紹介したのだと言えるのです。

 復活信仰とは、現実に死を迎えた人であっても、その名も顔も神様の中にしっかりと刻み付けられ忘れられることがなく、2度死ぬことのない存在として新たな命のよみがえりの時まで眠りにつく、そのような「生きている」人間として覚えられていることを信じる信仰です。「生きている者の神」として、私たちの顔も名前もしっかり覚えられる、そして決して私たちを2度死なせはしない、そのような神様がおられることを知るならば、もはやこの世のあらゆる喜びにまさる喜びをもって私たちは生きて行くことが出来ます。またどんな悲しみも苦悩もさらには死の絶望も、この「生きている者の神」に覚えられている、忘れ去られることはないという希望の前で、朝露のごとく消え去っていくのです。その最大の証明として、イエス様が十字架で死なれ、三日目に復活された。その出来事を私たちも決して忘れることなく、主と共に生き、主と共に死に、主と共に復活する日を待ち望みましょう。
(2017年4月23日週報より)