一粒の麦として生きる

 一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。(ヨハネによる福音書12章24節)
                   
 受難週を迎えました。イエス様がエルサレムの都に入った後、1週間も経たない内に捕えられ、即決裁判で死刑を宣告され、異邦人の手に渡され十字架に架けられてしまった、そのような主イエスの御苦しみを思い起こしつつ、この週を歩んでいくこととなります。「一粒の麦は地に落ちて死ななければ、一粒のままである。」その言葉によって、イエス様は、ご自分がその一粒の麦としてこの世界に来られ、すべての人の救いのために十字架に掛かられ死ぬことを示されたのです。それはご自身の死によって多くの人々を永遠の命へと定める、神の子イエス様が父なる神様に託された最大の使命でありました。

 今、日本ではお花見のシーズンを迎え、桜の木の下でビニールシートを敷き、その上で家族や友人、仕事仲間が御馳走を食べたり、お酒を酌み交わす場面があちらこちらで見られます。また、そのような大勢で集まらなくとも、満開の桜並木を一人で眺めながら川沿いの道を散歩するだけでも、のどかな春の日を満喫できるでしょう。しかし、その人々の目を楽しませる桜の花も、やがて散って、人々の足元で踏みつけられる無残な姿となってしまいます。

 しかし、この自然の営みの中で花は散ってもその次に実を生らし、その実が落ちあるいは鳥や虫に運ばれ新しい命を芽生えさせることも私たちは知っています。私たち自身も、青春の花の咲き誇る時期もあれば、社会人として充実した実を生らせる時を過ごし、またその働きが何らかの形となって後の世代へと引き継がれていくようになります。その人生のそれぞれの時期も、一つ一々の経験もただ1回きりの、その時でなければ過ごし得ないまた経験出来ない大切な時であり経験として与えられているものなのだと言えるでしょう。

 今年見る桜の花も、来年見ることになる桜の花とは違う、ただ1回限りのものであり、同時に今年桜を見ている私たち自身も、来年桜を見ることになる頃にはもう同じ私たちではない、今をただ1回限りの命として生きている一人一々なのです。その1回限りの人生の時を、何を求め、何を残し、また何のために献げていくのか、それがその人にしか現せないその人独自の生き方として、神様に覚えられていくものなのです。

 イエス様は、私たちすべての人間の罪の贖いのため、ご自身を「一粒の麦」にたとえ「落ちて死ねば多くの実を結ぶ」すなわち罪を取り除かれた人々が永遠の命によみがえることの出来る道を、永遠にただ1回限りの十字架という御苦しみによって開いて下さったのです。私たちはそのイエス様の十字架の御苦しみによって、新たな命を生きられる一人一々として、すでに神様の手に収穫された麦の一粒一粒なのだということを忘れてはなりません。私たちの人生は、信仰によってその1日1日を神様の御言葉によって育まれ成長し、また新たな種を生み出していく、永遠に1回限りの価値を持つ、恵みに満ち溢れる日々として主と共に生きる人生なのです。
(2017年4月9日週報より)