知らない方を知らないと言うペトロ

 主は振り向いてペトロを見つめられた。ペトロは、「今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないというだろう」と言われた主の言葉を思い出した。(ルカによる福音書22章61節)
                   
 ある落語家の方が次のようなことを言っていました。「よく国会の答弁で『記憶にございません』と言う人がいる。知っているのに知らないふりをするんですね。また、知らないくせに知っているふりをする人もいます。知ったかぶりをして偉そうな顔をするんです。でも、一番たちが悪いのは、知らないことを知らないふりをする奴なんです。」これを聞いて何故か妙におかしくて笑ってしまったのですが、知らないことを知らないと言う人は一番真面目で正直な人ということに違いありません。しかし、真面目で正直であるから善い人間とは限らないということもあります。「自分には罪がない。知らなかったのだから」と言う言い訳は、知らないで過ごしてきた自分を正当化する、逆に言えば事が起こってから自分が関わっていた事がらの大きさに気づいて、その責任を逃れるために「自分は知らなかったのだから責任はない」と知った後でも知らないふりをし続ける無責任な態度です。本当に知るべきことを知ろうともしなかった態度を反省もしない人間の姿なのです。

 イエス様の弟子のペトロは、イエス様が祭司長らの手により捕えられ、十字架につけられる裁判にかけられた時、その様子を近くでうかがっていました。しかし、彼がイエス様と一緒にいたことを知っていた人々から「あなたもあの人の弟子だ」と指摘された時、「わたしはあの人のことを知らない」とペトロは三度否定したのです。自分がイエス様の弟子であるということで、イエス様と同じ裁きの座に立たされてしまう、そういう恐れから「あの人のことを知らない」と否定してしまったのでした。その時、イエス様がペトロの方を振り返って見つめられたとあります。

 ある人が次のような言葉を語っています。「人にも言えず、親にも言えず、先生にも言えず、自分だけで悩んでいる、また恥じている。そこでしか人間は神様に会うことはできない」と。ペトロはそのような言葉があてはまる経験をした人でした。イエス様に「御一緒なら、牢に入っても死んでも良い」と告白した人だったのです。その言葉に嘘はなかったでしょう。彼は真面目で正直な人間でした。しかし、イエス様が裁判にかけられ、死刑を宣告されるその運命が決定する大事な場面で「あの人を知らない」と否定してしまいました。それは彼にとってこれから一生忘れることの出来ない、「自分は卑怯者、裏切者だ」という自責の念を負いつづけざるを得ない出来事であり、痛ましい瞬間でした。しかしその時、イエス様が彼を振り返られたのです。そしてペトロは「鶏が鳴く前に、三度わたしを知らないというだろう」と晩餐の席で自分に言われたイエス様の言葉を思い出したとあります。ペトロはイエス様を知らないふりをしたのではなく、真実、イエス様がどんな方であるかを知らずにいたのです。「知らない方を知らない」と言ったのでした。しかし、イエス様の言葉と眼差しが、自分をとことん知りつくし、その弱さをも本人以上に知っておられ、なお赦しと愛を持って振り向いてくださった、その主の真実の姿を彼は初めて知ったのでした。その愛の前で、もはや知らないふりも知ったかぶりも出来ない、そのイエス様の愛の証し人としてペトロは立ち上がっていったのです。
(2017年3月26日週報より)