苦難の中の自由

 父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。(ルカによる福音書22章42節)
                   
 第二次世界大戦中、ナチスのユダヤ人収容所に入れられ、600万人ものユダヤ人が殺されたという過酷な収容所から、戦後生還した数少ない生存者の一人にフランクルという心理学者がいます。彼は次のような言葉を語ったと言います。「人間とは、人間であるべき姿を絶えず決定してゆく存在であります。人間とは動物の水準までなり下がることが出来ると同時に、聖者の生活を送るところまで向上できる可能性を持つものであります。人とは結局、ガス室を発明した存在でもあり、だが同時に、その同じ人間によって発明されたガス室へと、まっすぐに頭を上げて、主の祈りや、ユダヤ教の死の祈りを唱えながら入ってゆくことができる存在でもあります。」

 フランクルはユダヤ人収容所の中で、人間がケダモノにもなれば、最後まで人間らしく生きた人たちもいた、その姿を見てこのように語ったのでしょう。そして彼はまた、人間は他の動物と違い、生き方を選ぶ自由があるとも言っています。「人間の自由とは、諸条件からの自由ではなくて、それらの諸条件に対して、自分のあり方を決める自由である」と。

 そしてあるユダヤ人収容者の姿をこのように伝えているのです。そのユダヤ人収容者は、次のように祈ったとあります。「私は収容所の中での苦しみを喜んで苦しみますから、その代わりに、私の愛する母親の苦しみをその分だけ和らげてやってください。もしガス室に送られ死なねばならないとしたら、どうぞ私の命の短くなった分だけ、どこかの収容所に入れられているだろう母親の命を長らえさせてください。」・・・

 イエス様のゲッセマネの園での祈りも、このような苦しみの中で祈られた祈りでありました。ご自身の十字架の苦難を目の前にしつつ、その十字架の運命を恐れ悲しみつつも、その苦しみと死の運命を通しても神様の御心がこの世に実現するのであれば、その運命を喜んで引き受けます、そうイエス様は祈られたのでした。

 このような祈りは人がその苦しみの現実を取り除かれ解放されることを望む祈りではなく、その苦しみの只中で自分が神様の御心を現す器として変えられていくことを究極の目的とし、その苦しみを自ら選び取っていく、そのような最も自由な「自分のあり方を決める」祈りだと言えるのではないでしょうか。

 私たちの祈りは、このイエス様の「苦難の中で自分のあり方を決める」自由に基づいて祈ることの出来る祈りであると言えます。しばしば自己中心的な祈りしか出来ない自分であることを認めざるを得ない、そのような私たちです。でも、私たちの救いのために十字架に自らをつけるほどの決断をしてくださったそのイエス様の最大の祈りが、私たちの祈りの原点にあることを思い返すならば、私たちも聖霊の導きによって「わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」と祈ることの出来る自分へと変えられる、その希望に満たされて祈り続けていけるのです。
(2017年3月19日週報より)