最も小さい者の一人

 わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。(マタイによる福音書25章40節)
                   
 有名なカトリックのシスターで教育者でもあった渡辺和子さんが、その著書の中で次のような思い出を語っています。それは渡辺さんがまだ20代のころ、あるアメリカ人の下で働くことになり、その上司は仕事には大変厳しい人であったと言うのです。その人は「ただの1セントの計算間違いであっても、正確でないという点では1万ドルの計算違いと変わりない」と僅かな間違いも許さなかったと言います。しかし、その人は本当に温かな人でもあったそうです。人間そのものに対して、いつもその弱さを包み込み、赦す愛を持っていた人であった。そう渡辺和子さんは述懐しています。

 イエス様がこの世の最後の審判について語られた言葉の中に、「最も小さい者の一人」という表現が出てきます。その「最も小さい者の一人」に何をしたか、しなかったか、が救われる者と滅びる者との運命を決定するというのです。それは厳しい神様の審判の基準でありますが、同時にその「最も小さい者の一人」さえも決して見過ごすことはされない、最も温かく人間を見つめ包み込む神様の愛の表現なのだとも言えます。

 イエス様のたとえ話の中に「無くした銀貨」というお話があります。10枚の銀貨のうち1枚を無くした人が、家じゅうを掃いて回りその1枚の銀貨を探し回るというお話です。そして見つけたら近所の人たちを呼んで「無くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでください」と言う・・・そのようなたとえを語って「一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある」と教えられたのです。

 渡辺和子さんが言っているように「たった1セントの間違いも、1万ドルの間違いに等しい」と厳しくチエックする人が、人間に対し細やかで優しい愛を持っているのと同様、神様はこの世では見過ごされがちな「最も小さい者の一人」をも救いの対象として見逃されず、むしろ「その一人にしたことは、わたしにしてくれたことだ」と最大の喜びをもって評価される方なのです。

 「障がい者は世の中からいなくなればいい」というナチスドイツが考えた優生保護の思想が今もこの世界にはびこり、「難民はテロリストの仲間」だと一括りにして拒絶するような政策を実行する動きが現実にあります。人が人を十把一絡げに査定し、このグループは価値がある、このグループは役にたたない邪魔な存在だと決めつけ排除する。そのような世界に、神の御子は「最も小さい者の一人」として来て下さったのです。今もその「最も小さい者の一人」として主イエス・キリストは私たちの傍らに、一人一々の存在をかけがいのない、失われてはならない一人一々として見つめ、愛し、包み込まれるため来て下さるのです。主の十字架の道は、私たち一人一々を誰一人拒まず愛し受け入れるために、神の独り子が命を献げるために歩んでくださった道なのです。それほどの大きな愛によって、どんな存在も価値ある失われてはならない命として生かされていることを覚え感謝しましょう。
(2017年3月12日週報より)