隅の親石

 家を建てる者の退けた石が隅の親石となった。これは主の御業わたしたちの目には驚くべきこと。(詩編118編22~23節)
                   
 ある本に次のようなお話が載っていました。一人の青年が長い間、病院で寝たきりの生活を送っていました。その青年にも将来に対する夢があったのです。あれもしたい、これもしたいという夢が。しかし、思いがけないことから、病院のベッドの上で過ごさなければならない身の上となり、もはや自分の人生に希望も夢もなくなってしまったと、病院の窓の外で普通に歩いている同世代の人たちの姿にも羨望の眼差しを向けることしか出来なくなっていたのです。

 そのような彼のもとに、久方振りに学生時代の友人が訪ねてきました。そして、「お前はいいな。1日中寝ていられて」と言う友人の言葉に「人のことだからと思って」と内心腹立たしく思いつつ、それでも何気ない世間話を交わすうちに、友人が自分の身の上話を始めたのでした。「実は今、会社の仕事や職場の人間関係に行き詰っていてどうしようもないんだ。誰かに相談したくても、友達はみんな自分の仕事のことで手一杯で、話をする時間もない。そこでお前のことを思い出して、入院しているならかならず会えるとやってきたんだ。もう何もかもいやになって、お前と会って話ができたら、その後に自殺しようかと考えていた。でも、お前がこんな寝たきりの状態でも一所懸命頑張って生きている姿を見たら、もう死ぬ気がなくなったよ。俺も頑張って生きてみるよ」そう言って友人は帰っていきました。その友人を見送った後、青年は「寝たきりもいいな」と思った―というお話です。
 不思議なお話ですが、聖書にも「隅の親石」という不思議な話があります。石組みの家を作る職人が、初めは不格好で大きすぎるために建築材料にはならないと放り出した石を、後になって石組み全体をすき間なく整えるために、家の隅に打ち込む。それが「隅の親石」というものです。最初は誰が見ても「役に立たない」と思われていたものが、やがてすべてを支える重要な役割を果たすようになるという比喩として使われる言葉であります。

 今週からレント期間に入ります。イエス様がすべての人の罪の赦しのために、十字架にかかってくださった、その出来事を深く心に留め歩んでいく期間としてレントの40日間(日曜日を除く)が始まるのです。イエス様が私たちすべての人間の「隅の親石」となってくださるため、ご自身の体を十字架に釘づけにし、その命を私たちの罪の贖いとして献げ尽くされた。だから、私たちはどんな苦しみや悩みの中にあっても、イエス様の十字架の御業によって、すでに新しい命へとよみがえらされた者として立ち上がる力を与えられるのです。

 寝たきりで何の役にも立たないと思われていた青年が、絶望し死のうとした友人に生きる希望を与えたように、十字架は私たちの普段の生活の中では決して「役に立つ」価値あるものとは思われずとも、私たちが最も苦しい時、この世の希望も夢も失ってしまう時に「隅の親石」として私たちの人生をしっかり支え、新たな希望の道へと歩み出させてくださる。その十字架を見上げつつレントを迎えましょう。
(2017年2月26日週報より)