神の業が現れるため

 本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。(ヨハネによる福音書9章3節)
                   
 哲学者パスカルの祈りに次のようなものがあります。「あなたはあなたに仕えさせようとして、わたしに健康をお与えになりましたが、わたしはそれを全く世俗的に用いました。あなたは今わたしを矯正するために、病気をおつかわしになりました。・・・どうか、あなたの刑罰を悪用することのないようにしてください。・・・あなたの懲らしめをわたしにとって有益なものにしてください。もしわたしの体力の続くかぎり、この世の情愛に満たされた心を持つようでありましたら、わたしに救いのために、わたしの体力を取り去ってください。」。

 パスカルという人は生涯さまざまな病に苦しめられ、その苦しみの中でこのような祈りをしたというのです。彼は病の苦しみが神様からの「懲らしめ」であると受け取っています。しかし、それは彼の罪に対する神様の怒りとしての罰ではなく、彼を救いに導くための恵みによる矯正と受けとめているのです。

 また八木重吉という詩人も病の中でこのような詩を創りました。「病気をして いろいろ自分の体が不安でたまらなくなると どうしても怖しくて寝つかれない しかししまいに キリストが枕元に立って じっと私を見ていてくださると思うたので やっと落ちついて眠りについた」。

 このような人たちは、病そのものを信仰の光に照らして見つめています。その時その時の病の苦しみも、やがてそれらを通して神様の恵みと救いの出来事へと導かれるためのものであることを知り、どのような状況に置かれても、イエス様が共におられる喜びを実感し感謝しているのです。健康である時は、それが当たり前のように思い、自分が自分の体や心の主人であるように思い、パスカルが言ったようにそれを「世俗的に用い」てしまうことが多いのが人間の現実でしょう。むしろ病気やさまざまな障がいを持つ時こそ、その肉体的・精神的限界の中で、本当に自分を生かし支えるものが何であるかをはっきりと認識し、そこに心を向けて行く機会も与えられているのだと言えるのです。

 竹細工で籠(かご)を作る職人の人は、竹の皮を竹本来の性質とは逆の方向に曲げて竹籠を編んでいくそうです。いきなり逆の方向へ曲げると折れてしまうところ、時間をかけ徐々に少しずつ曲げていく、そのやり方を「竹を騙す」というのです。私たちも、自分の思いどおりにならない現実、病気になったり落ち込んだり、何で自分がこんな目にと思うような状況に置かれた時、それは神様が私たちを神様のみこころに適う方向へと「矯正」されている「だまし」の作業がなされている時なのではないでしょうか?

 病や障がいや年齢による衰えという私たちにとって望んでいない状況に置かれる時、それを信仰の光のもとで見つめるならば神様のみわざが私たちの上に現され、わたしたちが神様の愛の器として用いられる絶好の機会なのだということを忘れてはなりません。
(2017年2月12日週報より)