信仰の光をかざしつつ

 わたしはあなたたちに水で洗礼(バプテスマ)を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。(ルカによる福音書3章16節)
                     
 今年も、最後の礼拝の時を迎えました。振り返るならば、4月に起こった熊本・大分の大地震や東北での水害、また大型台風によって中国でも多大な被害が出たり、イタリアでも地震による建物の崩壊、と自然の猛威による災害が立て続けに起こった年でありました。また、先週の22日には、新潟の糸魚川市で火災が発生し、フエーン現象による強風がことさら被害を拡大して、150棟の家々を焼き尽くすという大火災に発展しました。多くの方が住む場所や仕事を失い、失望と落胆の極みにあることを考えると、私はただ祈る以外にはない自分の無力さを感じざるを得ません。しかし、私たちの人生はこのような運命がいつ自分の身に降りかかって来るのか分からない、そのような先の見通せない暗闇の中を誰もが生きているのだということをも、痛感させられる出来事でもありました。

 クリスマスの出来事の先触れとして、洗礼者ヨハネが誕生したことをルカ福音書に詳しく描いています。彼は救い主の到来を多くの人に告げ知らせるために生まれて来た人でした。成長して後、荒野の預言者となったヨハネは人々に悔い改めのための洗礼を授けていたと記されています。多くの人はこのヨハネが神様の遣わすメシア、救い主ではないかと期待をかけたのですが、ヨハネはそれを否定し「わたしよりも優れた方が来られる」とキリストの到来を予告したとあります。このヨハネも、やがてガリラヤの領主ヘロデの罪を告発したために、ヘロデに捕えられ牢獄につながれてしまうという悲運に見舞われます。彼こそが救い主ではないかと期待されたヨハネも、自分に降りかかる運命をまったく見通すことが出来なかったのでしょう。しかし、このヨハネの言うとおりに、彼が捕えられた後にイエス様が登場し伝道を始められ、福音が告げ広められるようになりました。

 ヨハネは「わたしは水で洗礼を授けるが・・・その方は、聖霊と火によって・・洗礼をお授けになる」と予告していました。ヨハネは悔い改めのためにヨルダン川で人々に洗礼を授けていましたが、それもイエス様が来るまでの仮のものであり、本当の救いの出来事が成就するのは「聖霊と火によって」洗礼を行うキリストの登場を待つ以外にはないことを証ししたのです。ヨハネ自身も、自分に降りかかる投獄と処刑という悲惨な運命を見通すことが出来ない、暗闇を歩む一人の人間であったことに変わりはありません。ただ、彼が知っていたのは、後から来る真実の救い主のために、神様から先に遣わされたのだという自己認識でありました。その自己認識の光が、彼を最後まで支える光となったのです。人は自分に期待して待っているものがあるという自己認識によって、どんな苦難の状況でも生きる希望を失わない、と心理学者のフランクルは語りました。私たちもこの1年、キリストによって洗礼を受けた者、救いにあずかった者として、主に信頼し続け、その信仰の道を弛(たゆ)まず歩む者であることを神様から期待された一人一々です。どんな暗闇の中も信仰の光をかざし、希望を持って歩み続けたいと願います。
(2016年12月25日週報より)