神様の背中に

 「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。(マタイによる福音書1章23節)
                     
 今年も、主イエス・キリストの降誕を迎える季節となりました。そのクリスマスの時に、私たちはかならずインマヌエル「神は我々と共におられる」という言葉を耳にします。神様の御子が、私たち人間の世界へ人となって現れてくださった、そのことは神様が私たちの人生の同伴者として、共に歩んでくださることの最大のしるしなのだと言えましょう。ただ、この「神は我々と共におられる」のは、何もクリスマスの時ばかりなのではありません。私たちの人生のどの局面においても「神は我々と共におられる」のです。

 しかし、私たちはしばしば「本当に神様は私と共にいてくださるのだろうか?」という不安や疑いを抱くことがあることも、誰もが認めざる得ない現実なのではないでしょうか。神様がいてくださるのなら、どうして自分はこんな苦しい目に遭うのか、何故いつまでたっても悩みや痛みが絶えず私に訪れてくるのか・・・そのようなことを1度も思わなかった人など、一人もいないのではないでしょうか。

 有名な「フットプリント」(足跡)という詩の中で、砂浜に二人分の足跡が続いていたのに、その足跡がいつの間にか一人分の足跡になっていた、という描写があります。作者は「あの時、自分は一番苦しかった。その苦しい時にあなたはどこへいっていたのですか?」と神様に問うのです。すると次のような答えが返って来ます。「あの時、わたしはあなたを背中におぶって歩いていたのだ」と。

 「神は我々と共におられる」のは、神様が私たち人間の傍らで、私たちと楽しく談笑しながら散歩するように「共におられる」のではありません。むしろ、神様は私たちがくずおれ一歩も歩けないような時に、私たちを背負ってくださる方として共にいてくださる、私たちの苦しみ痛みを誰よりも最初に理解し、私たちの人生の重荷を私たちの体ごと心ごとすべてその身に負ってくださる方として、共にいてくださるのです。

 「あなたたちは生まれた時から負われ、胎を出た時から担われてきた。同じように、わたしは老いる日まで白髪になるまで、背負っていこう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す。」イザヤ書46章3~4節

 イエス様もマリアやヨセフに背負われる赤ん坊としてこの世に生まれました。しかし、そのイエス様は神の御子として、やがてすべての人の罪を贖うため十字架にかかる人生へと歩みだされるのです。そのイエス様の背に私たちの人生のすべての重さが背負われ担われた、そのことを信じる者には、人生のどんな局面にも「神様が共におられない」日など一日もないことが分かるのです。かつて苦しみ悩んだ日も、神様は共におられ、その時自分は神様の背に負われ担われていたのだ、と感謝出来る時がかならず来るのです。神様が私たちに背を向けるのは、私たちを見捨てる時ではなく、私たちを背負って下さる時なのです。苦しみ悩みの時こそ、主イエスの愛におぶさって、幼子のように主に全幅の信頼を献げて行くべき時なのです。
(2016年12月11日週報より)