うめきながら待ち望む

 “霊”の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。(ローマの信徒への手紙8章23節)
                
 先週の礼拝メッセージの中で、私はザアカイという名前が「正義」という意味を持っているというお話をしました。しかし、それは「純粋」という意味であったことを、後で聖書大事典の項に載っているのを見て「しまったあ!」と呻かざるを得ませんでした。35年も牧師をしていながら、こんな単純な勘違いをして、それを堂々と人前で話してしまったことを深く恥じ入らざるを得ないのです。「仕事に慣れるな。仕事をなめるな」という格言がありますが、これくらいのことは辞書や事典をひくまでもなく分かっているという驕りがあったのです。私自身、まあこれくらいは知っていて当然と思っていたところで足をすくわれたという、痛い経験をしました。ただ、私がこんな風に失敗を繰り返す自分に「何といい加減な、不完全な牧師か」と自己嫌悪に陥ってしまうことは今に始まったことではありません。

 「“霊”の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。」初代教会の使徒パウロはこのように記していますが、彼は信仰をもって生きる人間が、しかしなお体が贖われていない、つまり、いまだに完全な神の子として生きられないという現実に歯がゆい思いを抱いているのだと語っています。それは、自分の不完全さを嘆き、言葉においても行動においても神様のみこころに背く過ちや失敗を繰り返す自分はなんと惨めな存在か、と呻かざるをえない、自己否定的な思いです。しかし同時にそのように「心の中でうめきながら」も「待ち望んで」いるともパウロは言っています。つまり自己否定をしながら、なおそこに留まらない「希望」を持つことが信仰なのだと言うのです。「自分はダメだ」という自己否定に立ち止まり、自分の欠点を数え上げるような「うめき」を漏らすのではなく、その自分をかならず神の子に相応しいものとして贖ってくださる方がいる、その方の来られる時を今か今かと待ち望む、それこそが信仰の道を歩む者の「うめき」の本当の意味なのです。

 今日アドベントの第1主日を迎えました。イエス様の降誕の日を待ち望む最初の日ですが、4本のロウソクの1本目の火が灯されます。しかし、このロウソクの火は夜明けを待つ灯の火です。まだ深い闇がこの世界を覆っている、その中で灯される明かりなのであります。それもまた「うめきながら」夜明けの時を待つ、この世界に真実の光が差し込まれることを歯がゆい思いで待っていることのしるしでもあります。私自身、いつも過ちばかり繰り返す、そんな自分が牧師などと名乗っていることに葛藤し続けている身ですが、そういう不完全な体や心であっても、希望を持って1本のロウソクの明りを掲げていける、真実の光が差しこまれるまで、仮の光をもってこの世に少しでも救いの御子が来られる喜びを伝えていける、そこに自分の生きる意味を見出し得るのです。ロウソクの明りは揺らめきながらも、その不完全な明りであっても他の人の暗い心にも灯をともすことが出来ます。イエス様が私たちの贖い主として来られ、また真実の救いの光が輝く、その時を待ち望む喜びの明りを灯し続けていきましょう。
(2016年11月27日週報より)