愛される子として

 まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。(ルカによる福音書15章20節)
                
 元暴走族の総長をやっていた人で、今は少年たちの更生のために働いている方が、ある講演会で次のような話をされました。その人は母親を早く亡くし、父親が4人の子どもたちを育てている、そのような家庭環境の中で、厳しい父親に反発し、やがて暴走族の群れに身を投じて行ったということです。さんざん悪さを重ね、暴走族や暴力団の間でも顔が売れるような身となったその人は、ついに逮捕され刑務所に入れられてしまったのですが、刑期を終えて出所した時、前に勤めていた会社の社長が一人で迎えに来てくれたそうです。そして会社の同僚も何もなかったかのようにその人を迎え、会社の寮に住み込むこととなったその人のもとに、いつも何人かの同僚が遊びに来たといいます。その人は後で知ったことなのですが、社長が迎えに来てくれた日は、その人の出所の予定日より2日も前であったそうです。社長が刑務所に頼んで、その予定日より早めに出所できるよう手配していたのです。そしてその2日後に、刑務所の前に大勢の暴走族仲間や暴力団関係者が集まったことが新聞にも報道されたということです。その人は、自分が社長に守られていたことを知ったのでした。そして、同僚が何気なしに遊びにきてくれたのも、自分がかつての仲間と接触しないように見張っていてくれていたのだと分かったのです。

 そのような暖かい周囲の助けを受けて、その人は人として成長していったということです。しかし、やはり父親との関係は修復できないまま時が経ち、父親が危篤という知らせが届いたのです。その人は、その知らせを聞いても悲しむこともなく、入院先の病院に出かけたところ、付き添っていたおばさんから「この親不幸もの」と怒鳴られ、次のような話を聞かされたのです。その人が出所する頃、町の中にいくつものシャッターに「何々はこの街からでていけ」という、その人を名指しした落書きが書かれていたそうです。その落書きを父親が徹夜をして消して回ったといいます。そして「あいつが刑務所から出てきたときに、こんなに街に恨まれていることを知ったら絶対に立ち直れない。だから全部消して、何事もなかったように迎えてやりたい。このことはあいつには言わないでくれ」そう頼んだというのです。その時に、初めて父親の思いを知ったその人は父親の手を取り、初めて父親の前で泣いたということです。そして、きっと自分はこの父に褒められたくて、右往左往しながら、回り道しながら、ここにたどりついたのだと思った。ようやくその父親と「めぐり会う」ことが出来たのだ、と感じたそうです。

 聖書の放蕩息子の現代版とも言えるお話ですが、私たちも同様、神様が自分のことをどれほど愛し、気遣い、守り導いてくださっているのか、そのことに気づかず、自分勝手に人生を浪費してしまってはいないでしょうか?しかし、神様は私たちがどんなに離れていても、遠くからでも私たち一人一人を愛すべき見捨てることの出来ない我が子として、その視線を一瞬たりとも外されることはないのです。その神様の愛とイエス様の御言葉によって、私たちはどんな回り道をしながらも、かならず愛し合う親子として神様とめぐり会える、その時を信じ歩み続けられるのです。
(2016年11月13日週報より)