一切を主の愛に委ね

 ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。(ローマの信徒への手紙3章21~22節)
                
 明日10月31日は宗教改革記念日です。1517年10月31日、ヴィッテンベルグの修道士マルチン・ルターが教皇庁に対し、95か条の質問状を突きつけた、それがその後ヨーロッパ中に宗教改革の波を拡げることとなった発端の出来事でした。この時からカトリック教会から袂を分かちプロテスタント教会が誕生したのです。カトリックとは普遍を意味する言葉ですが、もともと教会は一つの普遍的存在であったわけです。しかし、中世ヨーロッパの教会は、十字軍遠征などの戦争や大聖堂の建設のために膨大な出費を重ね、その経済的危機の打開のため「贖宥状」を売って金集めをしたり、一方では苦行や多大な献金をすれば、その徳を積むことで神様に義とされるという教えを広めていったのです。そのことに疑問を呈したのがルターをはじめとする宗教改革者たちでした。

 プロテスタントとは抵抗を意味する言葉ですが、当時のカトリック教会の在り方に真正面から反旗を翻し抵抗の姿勢を示した、その姿勢からプロテスタント教会と呼ばれるようになったのです。そのプロテスタント教会のスローガンの一つが信仰義認というものでした。それまで、人間は自分の罪を赦してもらうためには、苦行したり多くの善行を行って、その行為を神様に認められ義とされなければならない、という教えが主流でありました。しかし、そうではなく人間の罪はすでにイエス・キリストの十字架の贖いによって取り除かれている、人を義とするのは神様の一方的な業によるもので、人間が自分自身の行為で義とされ救われるなどということはない、それが信仰義認の意味なのです。ただ、イエス・キリストを信じることのみが人が義とされる唯一の道だということなのです。

 そのような信仰義認の考え方は、なにもルターたち宗教改革者のオリジナルな発想ではなく、もともと聖書の中にあったものでした。初代教会の使徒パウロは、人が義とされるのは律法を行うという人間の行為ではなく、キリストの十字架の贖いを信じる信仰によってこそ神様から義と認められる、そう唱えた最初の人でした。その聖書の言葉を再発見し、教会に新しい風を吹き込んだのがルターたちのしたことでした。ある牧師が初めて竹馬に乗った時の経験をこう語りました。竹馬に乗ってまっすぐバランスをとろうとしても、どうしても体が後ろに傾いて倒れてしまう。そこで、体を竹馬に預けるようにして前に体重をかけると竹馬はうまく進んだというのです。自分の手や足の力で竹馬を動かそうとしても失敗するが、むしろ竹馬に自分を委ねきった時に竹馬は自然に動き出すということなのです。それは私たちの信仰の姿勢に共通するものだ、とその牧師は語ったのでした。

 プロテスタント教会が生まれてから500年になろうとしている現代、私たち自身もあらためて聖書の言葉から自分自身の生き方を問い直し、どんな状況の中でも自分の力や知恵ではなく、ただ自分自身を主の大きな愛という竹馬に委ね、苦難や試練が降りかかる時も、恐れることなく主の愛に生きる道を前進し続けましょう。
(2016年10月30日週報より)