信仰の人生の使い方

 だれでも持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。(マタイによる福音書25章29節)
                
 落語にこんなお話があります。ある男が「目玉は二つあるのに、いっぺんに二つも使うのはもったいない。ものを見るのに片方だけあれば良い」と考え、一方の目を閉じて片目だけで世間を見ていた。長い年月が過ぎ、開けていた方の目が見えにくくなってきたので、そろそろもう片方の目を使おうと閉じていた目を開けた。すると、周りの景色も人も今まで見たことのないものばかりだった。

 現実にはあり得ない話ですが、長い間使わなかったものを、いざ使おうと思っても役に立たないということは良くある話です。おしゃれなよそ行きの服を、普段着るのはもったいないとずっとしまいこんでいて、ふと思い出して取り出したら、すでに流行おくれになっていたり、体のサイズに合わなくなっていたりもします。時は人を待たないということも事実なのです。
 日野原重明という有名な医師の方が「生きている時間とは、使える時間のことだ」と言われました。私たちの命も、その時その時をどう使って生きるのかを考え、その時にしか出来ないことをなし、その時を逃したら使えなくなる貴重な時間として有効に使い切る生き方をしなさい、ということでしょう。

 「もったいない」という日本語も、ただ無駄遣いしないようにしなさいという節約を勧める教えに留まらず、もっと大切なことに持っているものや時間を有効に使うことを教えている言葉なのではないでしょうか。「持っている甲斐がない」ような生き方をするのが「もったいない」ということなのだと思います。

 タラントンのたとえでは、5タラントン2タラントンの財産を与えられた僕が商売をしてそれを倍に増やし、主人からほめられ更に多くのものを与えられるというお話です。しかし1タラントン与えられていた僕は、失うことを恐れそれを土の中に隠したままにしておいたため、主人はその僕から持っていた1タラントンさえ取り上げてしまいます。このたとえから示されているのは、「持っている」ことが大事なのではなく「何のために」「何に使うために」持っているのか、そのことに人生の意味があるのだ、という教訓ではないでしょうか。

 私たちが持っている信仰は、ただ神様を信じている、聖書の言葉を知っているということだけが大事なことなのではなく、それをもっと多くの人の心に知られるように宣べ伝えて行くこと、そのことに重点を置かれるべきものなのです。しかし、それを義務や責任としてだけ考えると重荷として感じてしまいやすい、それゆえ信仰を土の中に隠すような消極的生き方しか出来なくなることが多いことも事実です。しかし、信仰というものを、それがなければどれ程人生を「もったいなく」生きてきただろうと思い起こす時、やはり自分には自分にしかなし得ない神様からいただいた大切な信仰の使い方がある、その喜びと感謝に満たされ、自分の時間を使い主の愛を行い続けて行ける者となれるのです。時は人を待ちませんが、神様の愛はいつでも私たちを待っておられます。主の愛を使い切る人として生きるまで。
(2016年10月23日週報より)