人生に無駄な時はない

 するままにさせておきなさい。なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。(マルコによる福音書14章6節)
                
 かつてインドの貧しい人々、特に家族からも見捨てられた孤独な病人、死を迎えるばかりの人たちを引き取り、最後までお世話をする活動をしたマザーテレサが、ある人からこう質問されたといいます。「何故、手当をしても死んでしまうに違いない人に貴重な薬や、十分とはいえない人手まで割いて、お世話を続けるのか?」と。その質問にマザーテレサはこう答えたのです。「親や世間を恨み、神や仏はいないと思いながら亡くなってもおかしくない人たちが、死の間際に感謝するのです。そのために使われる薬や人手ほど尊いものはありません。」と。

 マザーテレサには、死にゆく人一人一々は、誰とも変わりのない誰ともとり変えられない貴重な人生を生きた人として映っていたのでしょう。その人たちの一人でも、生まれたことに感謝出来ないということは、マザーテレサにはあってはならないことだったのです。だから、その一人の人の最後の笑顔のために、どれほど貴重な薬や人手を費やすことも、決して無駄なことではないと言ったのです。

 イエス様も、十字架に掛かる直前に、ある女性から高価なナルドの香油をすべて注ぎかけられ、そのために周りの人たちが「なんという無駄遣いをするのか」とその女性を非難した時、こうおっしゃられました。「するままにさせておきなさい。・・・わたしに良いことをしてくれたのだ。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるから、したいときに良いことをしてやれる。わたしはいつも一緒にいるわけではない。」と。

 これは、イエス様の「葬りの準備」のためになされたことであった、とイエス様は評価されたのです。十字架に掛かる直前、遺体に塗る香油を前もって注いでくれた、それは最も時に適った行為であるとイエス様は受けとめられたのでした。「良いこと」とは、いつも効率の良い、経済的にも人手の面でも負担の少ないことを良いというのではありません。たった一人の人のためにも、そこに手厚い看護や高度な医療行為がなされる、それは人間の尊厳を最後まで大切にするという、最も価値のある必要なことなのです。イエス様はそのような一人の人の生も死も軽んじられない、そのようなことこそ「わたしに良いことをしてくれたのだ」と喜ばれる方なのです。

 私たちは、誰もが自分の人生に「無駄」な日々も時もないことを思い起こさなければなりません。あんなことが無ければ良かった、という辛い悲しい日々も確かに訪れることがあります。しかしその痛みも悲しみも、その時、その人にしか経験出来なかったこととして貴重なものであるのことも事実なのです。そういう痛み悲しみの経験を通してしか覚えることの出来ない人生の意味や命の価値が心に刻み付けられることも多いのですから。そういう一つ一々の経験が自分の人生を濃密なものにしていくために必要なものなのでしょう。だから私たちは、どんな時も、時に適って与えられる恵みの時であり、無駄な時などない人生として生きるべきです。
(2016年10月16日週報より)