主が喜ばれる道

 わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。(ローマの信徒への手紙14章8節)
                
 初代教会の使徒パウロは、教会の中において、しばしば食生活の違いにより、教会員同士の間に溝が生じているという問題を重要視しました。ユダヤ人は豚肉を食べない、反芻しない動物は汚れている、というタブーを持っていました。しかし、異邦人にはまた別の食生活に関する考え方があり、ユダヤ人が汚れている動物と見做すものを食べていたのです。パウロはまた、「信仰の弱い人を受け入れなさい。何を食べても良いと信じている人もいますが、弱い人は野菜だけを食べているのです。」とも言っています。「何を食べても良い」と信じる人たちは、もはやイエス様の福音によって「汚れたものなどない」という「強い」信仰をもっていて、豚も羊も何でも食べられる自由を誇っていたのでしょう。しかし、従来の自分の育った環境や文化による食生活を変えられない「弱い」人たちもいるのです。パウロはその「弱い」人たちを、決して軽蔑して弱いと言っているのではありません。むしろ自由に何でも食べられる人たちが、自分たちのように何でも食べることが出来ない、そのような人たちに対し、「あなたたちは信仰が弱いからダメなのだ」とおごり高ぶることを戒め、むしろそのような「弱い」人を受け入れることこそ、真の信仰者の姿であることを説いているのです。

 食べ物に関する違いは、その人の生い立ちや家庭環境によって様々であります。どれが「正しい食生活」なのかを決定することは出来ません。味の濃いほうが良いと思う人もいれば、薄味のほうが健康的だと考える人もいるのですから。ただ大事なことは、その違いが人と人との交わりを妨げるようなものであったら、「主のために」食べない、また自分の良しとしてきた食生活を「主のために」改めることも必要なのだと言うことです。

 私たちは、何でも食べられるから信仰が強いというものではなく、反対に限られたものしか口に出来ないから弱い信仰だということでもありません。「食べる人は主のために食べる。神に感謝しているからです。食べない人も主のために食べない。そして神に感謝しているのです」とパウロは語っています。このように、互いに違ったものの見方、異なる価値観を持っている者同士が「主のため」という目標においては一つとなれる。それこそが教会の目指すべき真の交わりであり、イエス様はそのような交わりにおいて私たちが愛によって生きる者となることを、最も望んでおられるのです。

 『主のために』という言葉はたんなる全体主義的なスローガンのように「こう考えなければいけない」と強制する言葉なのではありません。そうではなく、誰もが「神に感謝して」するならば、また「神に感謝して」しないことを決断する時も、すべてが「主のため」イエス様の最も喜ばれることをしていることに違いはないのです。真実の愛とは、互いの違いを違いとして、それを対立の原因としていくのではなく、主イエスが最も喜ばれる愛によって「受け入れ」合う違いとしていくことなのです。この難しい宿題に喜んで取り組むことが、私たちの信仰の道なのです。
(2016年10月9日週報より)