星のように輝く人

 何事も、不平や理屈を言わずに行いなさい。そうすれば、とがめられることのない清い者となり、よこしまな曲がった時代の中で、非のうちどころのない神の子として、世にあって星のように輝き、命の言葉をしっかり保つでしょう。(フィリピの信徒への手紙2章14~16節)
                
 現代は、ネットを通し色々な人たちが様々な意見を発信し、そのような個人の考えや思いが多くの人たちに知られることが当たり前のようになっています。しかし、しばしばそういう個人の意見や考えに対し、ネットを通して誹謗中傷がなされ、いわゆる炎上といわれるバッシングが起こる危険が大きくなっていることも事実でしょう。人は、誰かが自分と違う考えや意見を持っている時、自分の考えや価値観の方を絶対化して、その他人の意見を絶対悪とみなし、過剰に攻撃してしまいやすくなるのです。

 ある人が中学生の時に、先生からこのような言葉を聞いたそうです。「君は何々君のことを指さして間違っていると言っているけれど、君が指を差し人を責める時、その人をさしているひと差し指は君自身だ。そして、その指と同じ方向を向いているのは親指だけれど、それは君よりも後ろに下がって、君の尻馬に乗っかって無責任にはやし立てる人間に過ぎない。あとの3本の指は逆に君自身を指差す人たちだ。その人たちは君が人を一方的に責めるその姿を見て、返って君の心の狭さにがっかりし悲しんでいるだろう。だから、人を指差し責めている時に、君は自分の意見が正しいと思っているが、むしろその何倍も君を責める人がいることを知らなければならない。もし、君が自分の方が間違っていると自分を指差す時は、その自分を責めるのは自分一人でも、その自分を指差す指を支えてくれる親指はきっと君が反省する姿に寄り添っている人だ。また他の指はもう君を責めようとはしていない、君のことをゆるしている人たちなんだ。」

 このような恩師の言葉に、その人はその後の人生の中で、人を責めるより前にまず自分が反省する姿勢を育てられたということです。私たちも、聖書の言葉から同じように、自らをまず省み、自分の方が間違っていると認めることが出来る平静さや謙虚さを養われているのだと言えるのではないでしょうか。「よこしまな曲がった時代」は自己正当化のため他人を中傷誹謗することに躍起になる、そのように互いに憎しみ合い攻撃し合う人生しか育てず、心をますます暗く閉ざしていかざるを得ない時代のことでしょう。

 しかし、自分の過ち罪の現実をすべて知り抜かれた方が、なおその自分の赦しのために十字架によって血を流すほどの愛を示された。あのイエス様の愛こそが絶対であることを信じるならば、誰もが他人を指す指を自分に向けかえる勇気と希望を持つことが出来るのです。「非のうちどころのない神の子」それは、イエス様以外には誰も自分を赦し清めてくれる存在がいない、そのような愛の眼差し以外に自分を責め裁けるどのような指も視線もないことを知る一人一々のことなのです。「神が清めたものを、清くないなどと、あなたは言ってはならない」(使徒10:15)
 この言葉によって私たちは「星のように輝く」ことが出来るのです。
(2016年9月25日週報より)