人生最大の基準

 はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。(マタイによる福音書25章40節)
                
 中国のたとえ話にこのようなお話があります。ある猟師が山に入り獲物を探しているうちに、足元に一匹のミミズが這っている姿を見た。すると草むらからカエルが現れてミミズを食べてしまった。「ああ運の悪いミミズだ」と思っていると、次にヘビが出てきてそのカエルを呑み込んでしまった。「ああ運のないカエルだ」と思っていると、今度はキジが飛んできてそのヘビをつかまえ木の上に飛び上がっていった。「何と運のないヘビだ」そう思いつつ、そのキジがちょうど手頃の獲物だと見定め、そのキジを撃とうとした猟師がふと考えた。「ミミズがカエルに食べられ、そのカエルもヘビに呑みこまれ、そのヘビもキジにつかまり食われた。そのキジを俺が撃ったら、今度俺は何に襲われるのか?」そう考えて恐ろしくなった猟師は、キジを撃つのを止め、早々に山を下りてしまった。

 自分より大きい強い者がいる、自分が食う側から食われる側になる可能性がある。そういうことを意識させるようなお話ですが、私たちは普段そのような自分が食われる可能性など余り考えてはいないというのも事実です。しかし、ミミズのような自然界では実に小さな食物連鎖の図式では一番最初に食べられてしまう、その最も小さい存在が、実は私たち自身の本当の姿なのかも知れないのです。

 この最も小さい存在こそが大切なのだ、ということを最初に唱えた方がイエス様でした。私たちは誰よりも強い、誰よりも大きい、それが生きる上で最大の価値であり、小さく弱い存在はいつも価値のない、誰かに踏みつけられるだけの役にたたないものとして考えがちです。しかし、その最も小さい者の一人として、イエス様はこの世に来られ、その最も価値のない役に立たない存在のように、この世では踏みつけられ排斥されて十字架につけられてしまったのです。しかし、それがすべての人の罪の赦し、贖いのために起こった神様の愛のわざであったことを聖書は明らかにしています。だから、この世で最も小さい者の側に、イエス様は常に立っておられ、その最も小さい者にすることをイエス様は我がこととして喜ばれる。それが生きる上で、大きくなること、強くなることよりも大切な人生の基準なのだ、と聖書は告げるのです。

 今、ミサイルや核弾頭をもって自分たちの国力を誇示している国があります。しかし、その国では今、洪水によって数知れぬ人たちが、命を失い、家も食糧も失い困窮の只中に置かれているという状況も伝えられています。そのような状況の中で、ミサイルや核弾頭が何の役に立つと言うのでしょうか?しかし、またそのことも他人事ではなく、私たち自身、誰よりも大きく強くなることだけを目指し、最も小さい者の存在をないがしろにする考え方を改めなければ、結局は同じ穴のムジナにすぎないことを恐れなければなりません。「最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」このイエス様の御言葉を、人生において最も重要な基準として生きていく時、私たちも互いに小さく弱い者同士として受け入れあい、互いに愛し合うことでイエス様の喜ぶ大きな愛のわざに仕えていけるのです。
(2016年9月18日週報より)