主の愛を目指して

 キリストは律法の目標であります。信じる者すべてに義をもたらすために。(ローマの信徒への手紙10章4節)
                
 パラリンピックが始まりました。体に障がいを持つ人たちが、その障がいを持つことを決してマイナスとせず、むしろ自分を鍛えるための力に変え、あらゆる競技においてメダルを目標にし、全力でプレイする勇姿を、私たちに見せてくれるでしょう。先日、あるニュース番組でパラリンピックに出場する選手が次のようなことうを言っていました。「障がいは、健常者の人にとって苦手なものがあるのと同じで、それ以外のところでは障がい者も健常者と同等かそれ以上の能力を発揮できるのです」。この言葉に、深く教えられた思いがしました。

 私たちは苦手なものはなるべく避けて通りたいと思うことが多いのですが、その苦手なものがあるということは私たちにとって必要なことでもある、そう教えられた気もしたのです。人は自分の得意とするところだけを伸ばして、そこで自分の能力を発揮して生きることを人生の目標としがちですが、それだけに苦手なものからは目を背け、それを自分の人生には何のプラスにもならないものだと思いやすいのです。しかし、苦手なものがあるからこそ、それにチャレンジしていくことで自分の人生の可能性を広げていける、そういう部分として苦手なものも大切な賜物であるということも言えるのではないでしょうか?

 障がいを「苦手な部分」として受けとめる人は、その障がいから決して目を背けず、むしろそれがあることを前提としてその苦手な部分を補う他の部分を鍛え磨き上げ、全力で人生を生きることができるのでしょう。聖書には、律法という神様から与えられた数多くの掟が記されています。しかし、その律法の掟を人は自分の力では決して守ることも行うことも出来ない、逆に律法に背き罪を犯さざるを得ないのが人間の現実であることも、聖書から教えられていることがらであります。それもまた、私たちにとって最も「苦手」な部分として与えられたものなのではないでしょうか。

 障がいを持つ人が、その障がいのゆえに何も出来ないというのではなく、むしろその障がいを現実のものとして意識しつつ、それ以外のところで自分の出来うる限りの力を出していけるように、律法という私たちには実行不可能な障がいがあってこそ、イエス様の十字架のみわざによって新たに生きる力、信仰の力が与えられて、その信仰において私たちも全力でこの人生という競技場を走りぬいていくことが可能とされているのです。

 「キリストは律法の目標」と聖書は語っていますが、キリストは私たちすべての人間を生かすために、ご自身が十字架において私たちがなしとげられないすべての律法の掟を果たしてくださったのです。「人その友のために命を捨てる。これ以上の愛はない」それこそが神様の律法が目指していた最大の目標でありました。私たちは、そのイエス様の命を捨てるほどの愛によって救われ、義とせられた一人一々であることを覚え、そのイエス様への信仰においてこそ全力を尽くして生きることを何よりもの喜びとし、主の愛を行うことを最大の目標として走り続けましょう。
(2016年9月11日週報より)