イエス様の指し示す方向へ

 天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。(マルコによる福音書10章6~8節)
                
 上記の御言葉は、イエス様が離婚を禁ずる言葉として語られたものだ、と一般的には解釈されているものです。しかし、イエス様は離婚を禁止する教えとしてこのような御言葉を語ったのではありません。むしろ、当時、夫が自分の妻に対し何か気に食わないことがあれば、離縁状一枚で一方的に離縁できる、そう定められていた律法の掟を、イエス様はこの一言で覆されたのでした。「神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」と。

 本来、律法も人間の都合や願望を満たすためのものではなく、逆に神様の前で人間がいかに罪深く過ちの多い存在であるのかを指し示すために定められたものです。しかし、その律法を自分たちに都合の良いように解釈し、歪めてしまったのが律法主義でありました。神様は人間がいかに不完全で自己中心的な存在かを知っておられたからこそ、律法という人間自らが考えもつかない掟によって、道に迷いやすい人間に対して一つの基準点を定め、その方向へ導こうとされたのでした。

 イエス様は、離縁状を渡せば男が勝手に女を切り離すことが出来るという律法主義者に対し、本来、律法が指し示しているのは「神様が結び合わせた」とものとして、人と人とが自分の勝手な思いで相手を切り離してはならないという、愛に生きる方向であることを教えられたのでした。

 私がまだ千葉の実家に通っていた頃、東京で総武線に乗り換え千葉に向かう途中、電車の窓の外に東京スカイツリーのそびえ立つ姿をよく見上げました。ある時、夕暮れの光の中で、その東京スカイツリーの向こうに富士山がシルエットとなって浮かび上がっている光景を目にしました。東京から千葉へ向かう電車からは、スカイツリーの姿はすぐに見えなくなりましたが、富士山のシルエットは夕焼けの空の下、まだ私の視線の先に私を追いかけてくるように、はっきりと見えていました。東京のビル街を過ぎ、千葉駅を通過しても、富士山の姿はしっかり私の目に映っていたのです。私たちにとって、神様は、スカイツリーとか高層ビルといった人工の建造物が見えなくなるほどに私たちが遠く離れ去っても富士山がその姿を隠さないように、自分の勝手な都合でどれほど私たちが間違った道へ進んでしまっても、決してその私たちの前から姿を消さない、むしろ追いかけて来られる、そのような神様なのです。

 イエス様は、人間の様々な都合で作り上げた掟より、はるかに大きな神様の創造の御業とその御心に私たちの目を向けかえるように指示して下さるのです。その神様の偉大な創造の御業によって造られた私たち人間は、女も男もあるいは様々な性の在り方も、その一人一々の大切な個性であり、その違いを持つ一人一々が、神様の大きな愛の眼差しを向けられている、かけがえない存在であることを覚えさせられます。「いないほうがよい人間」など、どこにもいない、そのことに絶対的な揺るがない確信として、イエス様の御言葉を聞き続け従い続けていきましょう。
(2016年8月28日週報より)