無駄にならない無駄な時

 人々が満腹したとき、イエスは弟子たちに、「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい」と言われた。(ヨハネによる福音書6章12節)
                
 4つの福音書がそれぞれ描いているイエス様の奇跡物語の中でも、最も壮大なスケールで語られているのが「5千人の給食」のお話です。たった5つのパンと2匹の魚だけで、イエス様の話を聞きに集まっていた「女と子どもを除く」5千人もの人たちを満腹させた、その物語です。その奇跡の出来事の後、イエス様は弟子たちに「少しも無駄にならないよう」食べ残したパン屑を集めさせ、それが12の籠一杯になったとも記されています。

 考えてみると、たった5つのパン、2匹の魚だけで5千人以上もの人々を満腹させる奇跡を起こされた方が、「無駄」の出ないよう食べ残しのパン屑を集めさせたということ自体、無駄な労力のように思えます。しかし、その無駄な労力を惜しまれないところにこそ、イエス様の私たち人間に対する愛の姿が現されているのだ、とも言えるのではないでしょうか?

 サンテ・クジュペリという作家が書いた「星の王子さま」という作品に、星の世界から地上に降りてきた王子が、故郷の星で育てていた1本のバラのことを忘れられないでいる様子に、砂漠のキツネがこう教える場面が出てきます。「あんたが星に残してきたバラの花をとってもたいせつに思っているのはね、そのバラのために時間をむだにしたからだよ。人間というものは、このたいせつなことを忘れているんだよ」と。私たちも、自分の人生を振り返るならば「ああ、何でこんな無駄なことに時を費やしてしまったのか」とか「どうして、こんな得にもならない相手のために、無駄な時間をつかってしまったのか」と後悔したり悔やんだりすることが結構多いのではないでしょうか。しかし、そのような無駄な時を費やしたことや相手に対し、実はその時、自分が最も大切な愛を注いでいたという事実に、私たちは気づいていないことも多いのではないでしょうか。

 イエス様は、たった5つのパンと2匹の魚だけで5千人以上の人を満腹させるほどの奇跡を起こせる方だったのです。にも関わらず、残ったパン屑を一切れも無駄にながらないように集められたのは何故だったのでしょう?私たちだったら、まあ、パン足りなくなったら、また祈って増やせば良い、食べ残しのパン屑なんて集めるほうが無駄じゃないか、と思ってしまうところです。しかし、イエス様はその奇跡のわざをなさる力を持ちながら、残ったパン屑をも惜しまれ「少しも無駄に」することはされない方なのです。

 それは、私たち人間が、食べ残しのパン屑のように、「お前はもういらない」と言われるような状況に置かれ、無駄な存在のように扱われる立場に置かれても、力や知恵も劣る者と見なされても、イエス様はそのパン屑を拾い集められ、その愛の御手に私たち一人一々を掴んで離さない方なのです。そのイエス様の愛を知る者には、どんな苦しみの時、悩みの時も、主が無駄を惜しまず私たちに関わってくださる時、逆に私たちにとっては一つも無駄にならない時であると言えるのです。
(2016年7月24日週報より)