一枚の銀貨を探し回る神

 ドラクメ銀貨を十枚持っている女がいて、その一枚を無くしたとすれば、ともし火をつけ、家を掃き、見つけるまで念を入れて捜さないだろうか。(ルカによる福音書15章8節)
                
 落語に次のような話があります。ある植木職人が、出入りしている大店の子どもが、一文銭を拾って「これはお雛様の刀の鍔か?」と父親に尋ねている姿を目にしました。その職人は感心して「さすが大店のお坊ちゃんだ。一文銭なんて、はした金は目にしたこともないんだ。いつも銭をくれ銭をくれという、うちの餓鬼とは違うんだな」と、そのことを家に帰って話します。すると、家に客が訪ねてきて話し込んでいたら、息子がやってきて「おとっつあん、こんなもの拾ったよ」と一文銭を見せて「これは何かな、丸くて穴があいている。お雛様の刀の鍔かな」と大店の子どもの真似をするのです。そこで、お客の手前「そんなものを手に持っていたら汚れるから、捨ててしまいなさい」と見栄を張って、息子に言いつけます。すると息子が「いやだい。これで、飴玉買ってくるんだ」と答える。そういうお話です。

 お金の価値を知らない、お金持ちの子どもには一文銭もお雛様の刀の鍔にしか見えませんが、長屋に暮らす貧乏な職人の子には、その一文銭は金持ちの子どもよりも何倍何十倍にも大切に感じられるというお話です。イエス様のたとえ話に登場する「ドラクメ銀貨十枚を持っている」女性は、長屋の貧乏な家の子どものように、その一枚すら無くしても、大騒ぎして家じゅう掃いて回り、見つけ出すまであきらめない、そのようなお金の価値を誰よりも痛切に知っている人であります。たかが銀貨一枚くらい捨てても惜しくない、そういう大金持ちから見れば哀れむべき姿でしょう。しかし、神様はそのような貧しい人の心に最も近くおられる、その貧しさの中に生きる人を決してバカにはされず、むしろ「あなたの気持ちはよく分かる」そう言って下さる方なのです。

 「男はつらいよ」という映画の中で、主人公のフーテンの寅さんが、旅先で助けた金持ちの知り合いからメロンを貰うという話が出てきます。しかし、寅さんが留守中に家族が寅さんを勘定に入れるのを忘れ、切ってしまい、皆で食べている最中に寅さんが帰ってきてしまい、大騒ぎになるのです。寅さんがそのメロンの件で怒り始め、家族を責め、またその寅さんを女友達のリリーがいさめる。そういう場面を見て、笑う観客と笑わない観客がいるというのです。笑う人たちは「たかがメロンのことで、大の大人があんなに怒るなんて」という反応なのですが、笑わない人たちは「寅さんが貰ったメロンなのに、これじゃあ、あんまり寅さんが可哀そうじゃないか」と寅と一緒に怒るというのです。

 イエス様も、おそらくこの映画の場面を見て「寅さんが可哀そうだな」と思ってくださるのではないでしょうか?十枚の銀貨のうち一枚を無くして、家じゅう掃いて探し回る女性の姿を、イエス様は決して笑う場面として語ってはおられません。むしろ、人間のうち誰一人として神様に探されていない人はいない、それほどに神様は必死に私たちをご自身のかけがえのない大切な存在として思って下さる。そのことをこのたとえ話の貧しい女性の気持ちを通し伝えているのです。その神様の前で、私たちは本当に自分も他人をも、唯一かけがえのない存在と信じられるのです。
(2016年7月17日週報より)