苦難を誇りとする

 わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。(ローマの信徒への手紙5章3~4節)
                
 バングラディシュで7人の日本人の方が、テロの犠牲となり命を奪われるという痛ましい事件が起こりました。その直前にも、トルコの空港で何十人もの人たちが銃撃や爆弾によって死傷するテロがありました。またイラクでは2百人以上の人々が自爆テロによってかけがえのない命を失うという、悲惨な事件が相次いでいます。このようなニュースが私たちの世界を、暗澹たる不安と恐怖に陥れている現実に、誰もが他人事とは思えない心の痛みを覚えていることでしょう。

 人間はこのような憎しみや暴力によって、常に罪を犯し続けて来たことをあらためて思い返さざるを得ない、そのような罪の力にいつも翻弄され続けいく人間の弱さ愚かさを思い知らされる、それが今回の一連の出来事を通しても示されている事柄であります。

 罪のない人たちが、なぜこのような目に遭わなければいけないのか、神様がおられるのなら、どうしてこのような罪の横行を見過ごしにされるのか、と信仰を持っている者でさえ深い絶望の闇に囚われてしまいそうになることは否定できない事実なのです。

 しかし、聖書は「苦難を誇りとします」と私たちに告げています。なぜならば「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む」ことを信仰者は知っているからだ、というのです。この言葉を語ったパウロは、決して人を絶望に陥らせる罪の力を軽視していたわけではありません。むしろ、パウロ自身、その罪の力に支配され翻弄され、その罪のゆえに絶望せざるを得ない経験をした人でありました。

 パウロはかつてユダヤ教のファリサイ派に属する熱狂的な律法主義者でした。またそれ故に、律法よりキリストの福音を信じるキリスト者を迫害し牢に投げ入れることを生き甲斐としていたような人間だったのです。今回のテロ事件の加害者たちも「神は偉大なり」という叫び声を合図に、多くの人たちを殺害したことが大きく報道されましたが、神様の名の下で人の命さえ奪っていく、そういうテロリストとしてパウロも自らを誇りとして生きていたのです。その彼がダマスコへとキリスト者を追っていく途上、天からの光を受け、復活の主と出会い自分の罪深さを知った、その瞬間、絶望の淵に投げ込まれたのでした。

 しかし、このパウロをキリスト者として立ち直らせ福音の器として用いられたのも神様だったのです。自分の罪に直面し苦しみぬき絶望にいたった人間を、神様は決して絶望の闇のうちにほうっておくままにはされないのです。「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望」へといたる道へと、その人間を絶望の闇から出発させられるのです。私たちの世界がどれほど罪の闇が色濃く覆っていようとも、その罪の現実に心痛め苦しみ、絶望の声を上げざるを得ない人を、主は決して見過ごすことはないということなのです。私たちは、むしろその絶望の闇の中でこそ、信仰の光を心のうちに灯された一人一々として苦難をも誇りとして立ち上がれるのです。
(2016年7月10日週報より)