「うめき」をもって執り成す方

 “霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださる・・・(ローマの信徒への手紙8章26節)
                
 「苦界浄土」という作品で水俣病問題を世に問うた石牟礼道子さんが「自分が小さかった頃、水俣では人の苦しみを我がことのように受けとめる人のことを『もだえ神さま』と呼んでいた」と新聞のインタビューに答えている記事を読みました。人の苦しむ姿に自らも「もだえる」ような痛みや悲しみを覚えることは、意識して出来るものではありません。やはり、その相手が自分にとってどれほど身近で大切な存在として感じるか否か、それが自分も「もだえる」か否かの違いとなって現れてくるものなのでしょう。

 熊本の方ではまた大雨が降り、町も田畑も冠水し、土砂崩れで家が押しつぶされ何人もの方が亡くなられるという災害が起きました。大地震に続いて、このような被害が重なった地域の人たちの苦しみ痛みがどれほどのものか、私には想像もつきません。このような状況にある人たちに対して「その苦しみは分かります」などと安易に口にすることさえ憚られる気持ちがします。

 ただ、そういう人の苦しみを「我がことのように」苦しみ痛む「もだえ神さま」のような誰かがいる、そう信じる時に、自分の苦しみがその「もだえ神さま」に理解され分かってもらえるということだけでも、もう一人で苦しむのではなく、その誰かと共にその苦しみを担いあい共に耐え忍ぶことが出来るという希望のもと、立ち上がる力も与えられるのではないでしょうか?

 私は小さい頃から何事にも不器用で融通の利かないところがあり「お前はバカ正直だ」とか「クソ真面目」だと言われることもしょっちゅうでした。正直や真面目という美点も、そこに「バカ」や「クソ」という文字がつくと真逆の意味になります。けっして褒め言葉ではありません。そういう自分の融通の利かなさや、不器用さが自分でもいやになり、またそのために自分も苦しみ、あるいは人に迷惑をかけることも多くありました。しかし、ある時、私の古い友人が「お前はウソをつかないんじゃない、ウソをつけないんだ」と私に向かって言ったことがありました。私はその言葉を聞いて「お前はウソをつけないほど正直だから、お前のことは信用できる」という褒め言葉のように聞こえたのです。本当は「バカ正直だ」と笑われただけなのかも知れませんが・・・

 お互いに相手の欠点も弱さも良く知り、また受け入れ合えていればこそ「悪口」も理解をもって言い合い、聞き合うことも出来るのです。そして、そういう関係の中で、相手の痛み苦しみを「我がことのようにもだえる」こともあるのです。聖書は、聖霊が私たちのために「うめき」をもって執り成してくれる、と記しています。言葉にはならないほどの苦しみや痛みを抱えている私たち人間の弱さも欠点もすべて理解し受け入れてくださるイエス様が、私たちのために送って下さった霊であるからこそ、私たちの思いを私たちと共に、また私たち以上に「うめき」「もだえ」るようにして祈ってくださる、その聖霊の執り成しの祈りによって、どんな苦しみも、もはや孤独に苦しむのではなく主と共に担いあう愛ある苦しみなのです。
(2016年6月26日週報より)