笑いを与える神

 サラは言った。「神はわたしに笑いをお与えになった。聞く者は皆、わたしと笑い(イサク)を共にしてくれるでしょう。」(創世記21章6節)                

 先週の木曜日に、大リーグ・マーリンズに所属するイチロー選手が、日米通算の安打数で大リーグ最多記録を抜きファンを大いに喜ばせました。そのイチロー選手がインタビューの中で次のような言葉を語ったことがテレビや新聞で伝えられています。「常に人に笑われてきた悔しい歴史が僕の中にある。これからも、それをクリアしていきたいという思いはあります。」。あのイチロー選手にして「人から笑われた」という悔しい過去があったことに驚かされます。同時に、その笑われた悔しさをバネに、それをクリアする努力をなし続けるところに、やはりイチロー選手のイチロー選手たる所以があるのだなと感心もさせられたのです。
 私達にとって「人から笑われる」という体験は、決して心地よいものではなく、そのような体験はトゲのように心の中にいつまでも残り続けるものです。また「人から笑われるようなことはするな」という言葉も、子どもの頃から「まともな人間」の条件のように私たちの心に刷り込まれていて、それゆえに「人から笑われる」ことに、一層の恐怖と恥ずかしさ悔しさを感ぜざるを得なくなってしまっているのも事実でしょう。

 私も小さい頃から、人に笑われるような言動をする子として、親や先生たちを困らせる問題児でありました。イチロー選手のように、その悔しさをクリアするほどの努力もせず、自分は外の誰よりも劣った「まともな人間」ではないというコンプレックスばかりを膨らませて、いつもオドオドした態度で生きてきた過去があります。人前で自分が何か言うと「笑われる」と思い、教室のみんなの前で教科書を朗読することが出来なかったこともありました。そういう自分が、牧師という人前で言葉を語り続ける仕事についたこと自体、未だに不思議でたまらなく思うことがあるくらいです。

 創世記に登場するイスラエルの初代族長のアブラハムにはサラという妻がいましたが、彼女は子どもの出来ない体であったといいます。それゆえ、「不妊」の女性として周囲から蔑みの眼差しで見られる、そういう屈辱の中で生きてきた女性でした。彼女に、神様が「来年、男の子が生まれる」と告げられた時も、サラは心の中で「笑った」とあります。それは自分のような者が子どもを産めるはずがないという「自嘲的笑い」でありました。しかし、そのサラに子どもが与えられた時、彼女は「聞く者は皆、わたしと笑いを共にしてくれるでしょう」と晴れやかに笑うことが出来たのです。「人から笑われる」ことを恥じとして生きてきた人が「人がわたしを笑う」ことを自ら共に笑える喜びとするようになった、それがサラに対して与えられた本当の笑いでありました。

 「人から笑われる」ということも、神様が与えられるその人の人生へのエールとなることもあるのです。恥も失敗の経験も、それを通して神様が導いてくださる道が開かれる、その信仰が私たちをいつも未来に向かって笑える者とするのです。
(2016年6月19日週報より)