主の愛にとどまる者として

 父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。(ヨハネによる福音書15章9節)
                
 私が牧師になるために入った神学校は、全校で30名足らずの学生しかいない、当時「日本で1番小さい大学」という奇妙なレッテルを貼られていた学校でした。私が入学した当時、1年生は私ともう1人の学生だけでした。この2人だけで、1年生の受ける講義を受けていましたが、そのもう1人の学生は事情があって1学年の途中で学校を辞めてしまいました。残されたのは、私1人だったのです。つまり、ほとんどの講義は、私と先生の1対1という、まるで家庭教師に習うのと変わりない状態になったのでした。

 こういう1対1で相手と向き合わなければならない、自分以外にその相手と向き合う人がいないということは、つまり「さぼる」ことが出来ないということです。私がさぼると、先生がする仕事が無くなる、そう思ったらさぼるにさぼれません。ですから、1年生の時はほとんどの講義には真面目に出席して、それなりに学生の本分を果たしました。しかし、もとから怠け癖のある私は、2年生になってからは反動で講義を休みがちになり、もちろん勉強にもついていけず、学校を2年留年して成績も低空飛行のまま、ようやくのこと卒業にまで漕ぎ着ける破目に陥りました。

 振り返ると、何ともったいない学生生活であったことか、と反省するばかりであります。あの頃、もっとまじめに1年生の時のような講義にすべて出席するような生活を貫いていたら、今頃はもっとましな説教の出来る牧師に成長していたのではないか、そう思うのです。しかし、そのような反省に立って、今の私の生活を考えると、自分ほど恵まれた牧師はいないのではないかということに気づかされるのです。何故かと言うと、この広路教会では毎週、水曜日と金曜日に祈祷会を開いていますが、出席者は1~2名という小さな集会でもう20年以上続いています。そして、祈祷会の出席者は、かならずと言って良いほど日曜の主日礼拝も休まれないのです。私は、祈祷会でも聖書のメッセージを語るようにしているのですが、祈祷会でしたのと同じ話を主日礼拝で繰り返し語ったことは、自分の記憶するかぎりは一度もありません。祈祷会も礼拝も、同じ人が出席し私の話を聞いておられるのですから。ですから、どんなに「ああ、今度はどういう話をしようか。種が尽きた」と頭を悩ましても、聖書のメッセージは常に新しい話をし続ける、そういう姿勢を貫く以外にはないのです。

 1対1で、自分以外に相手と向き合う者がいない、それは常に自分がその相手と共に成長させられる機会であり、決してそこから逃げず、そこに留まり続けることで、新しい言葉によって自分と相手との深い信頼関係を築く道であります。神様と私たちの関係も、常に「わたしの愛にとどまりなさい」と呼びかけるイエス様の前に、誰一人「いなくてもよい存在」はない、誰もが1対1の関係で「いなくては困る」一人一々として愛され続けていることを忘れてはなりません。主の愛に聴き、常に主の愛を新たに受け続け、主と共に愛を行う者として成長していきましょう。
(2016年6月12日週報より)