神様と私たちの約束

 友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。(マタイによる福音書20章13~14節)
                
 イエス様の語られた「ぶどう園のたとえ」話には、ぶどうの収穫のために、朝から夕方まで、人を雇い入れるために出かける主人の姿が描かれています。朝一番に雇った人から、夕方のおおかたぶどうの取り入れも終わり近くなって雇われた人も、その主人のぶどう園で働いたのです。一日の仕事が終わり、賃金を支払う段になり、最後に雇い入れた人たちから支払いが行われます。その人たちが一デナリオンの賃金を貰ったのを見て、最初に雇われた人たちは自分たちはもっと多く貰えるだろうと期待したのですが、主人はその人たちにも一デナリオンしか支払わなかったのです。そこで「一日中働いた」自分たちと、最後に来て少ししか働かなかった者と同じ賃金とはどういうことかと主人に文句を言うと、主人はこう答えます。「あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか」と。

 先週、伊勢志摩サミットが開かれ、東海地方は厳重な警備網に包まれました。各所に検問がもうけられ、名古屋でも普段より多くの警察官がテロを警戒し巡回する姿を見かけました。各国の要人が集まるその会議のために、全国から何万人もの警察官が集まり、この暑さの募る東海地方で、日に夜をついで汗を流し働いたのです。それは国家の威信をかけた重大なプロジェクトのため、警備する一人一々がことさら緊張し体を張って働いた、大変な日々であったと思います。しかし、公務員というのは、どれほどその仕事が大変なものであったとしても、普段の業務と変わりなく、その公務に対して特別多くの報酬を受けることはないのではないでしょうか?

 ある刑事ドラマで「事件に大きいも小さいもない」という台詞がありましたが、警察の仕事は各国の要人の警護という「大きな仕事」であれ、一般市民のトラブルの解決という「小さな仕事」であれ、その比重のかけ方に違いがあってはならない、それが理想的なありかたなのだということなのです。しかし現実には、小さなトラブルは差し置いても、国家の威信に関わる大きな仕事の方に重きが置かれてしまうことが多いのではないでしょうか。

 「ぶどう園のたとえ」で、主人は多く働いた者も少ししか働かなかった者にも、共に一デナリオンの支払いをしたのです。それは働く側にとっては「不当」な扱いに思えます。しかし雇う側にとってそれは「約束」として支払う「正当な報酬」なのです。このたとえ話は、神様の目には「人の働きに大きいも小さいもない」と映っている、同じ価値ある働きとして認められているのだということを示しているのです。信仰とは、このように神様と私たち一人一々が交わした「約束」に基づいて歩む道であります。神様は愛をもって、私たちの罪をイエス様の十字架によってすべて赦してくださった。そのイエス様の十字架と復活の御業を信じる私たち一人一々にとって、その信仰において私たちがなす働きに「大きいも小さいもない」のです。どんな小さな祈りも、どんな立派な社会的活動も、愛によって救われた私たちが、神の子とされる「約束」に基づいてなしていける貴い愛の務めなのです。
(2016年5月29日週報より)