顔の覆いを取り除かれた者として

 主の霊のおられるところに自由があります。わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。(コリントの信徒への手紙Ⅱ 3章17~18節)
                
 ミケランジェロの作品に有名なモーセ像があります。モーセが二枚の十戒が記された石版を抱えている像です。ところが、そのモーセの頭には二本の角が生えているのです。あれは、本当は角なのではなく、モーセが神様の言葉を受け、それをイスラエルの民に伝える時に、彼の顔が光を放っていたと出エジプト記34章に書かれている、その光のイメージが再現されているものなのです。その光は、モーセが神様と語っている間に、神様の栄光が彼に宿りその輝きがモーセ自身の顔から放たれたものであったと言います。(出エジプト記34章29~30節)

 そのモーセが、イスラエルの民に神様の言葉を語り終えると、自分の顔の光を隠すために顔に覆いを掛けたとも伝えられています。「モーセは、主の御前に行って主と語るときは、いつでも覆いをはずし」「再び御前に行って主と語るまで顔に覆いを掛けた」ということです。つまり、モーセは神様の前に出る時だけ、自分の素顔をさらしたのだということなのです。おそらく、神様に対してだけはモーセは自分の弱さも欠けもすべて見せることが出来たということでしょう。しかし、イスラエルの民に神様の言葉を伝え終わった時、その顔の光を人々から隠すため覆いを掛け続けていたのだと思います。神様の言葉を語る時はモーセ自身、その神様の栄光の輝きによって素顔、つまり人間としての弱さ欠けを覆われ誰にも見られることはなかったのですが、その輝きも神様の言葉を人々に伝える時だけの一時のもので、その輝きが失われればモーセもただの人の姿に戻るほかなかったのです。そのことを見られないように顔に覆いを掛け、人々に素顔を隠したのだとも想像出来ます。

 そのことを例に取り挙げ、使徒パウロはこのようにコリントの信徒の手紙Ⅱの中で記しています。「わたしたちは・・・モーセが、消え去るべきものの最後をイスラエルの子らに見られまいとして、自分の顔に覆いを掛けたようなことはしません。」と。即ち、イエス様によって、すべての弱さも欠けも知られ、なおイエス様の愛によって自分のありのままを受け入れられていると信じるキリスト者は、もはや誰に対しても素顔のままでいて良いのだ、とパウロは語るのです。彼自身も自分の弱さや欠点に苦しみ、その「とげ」を取りさってくださるように神様に願った時、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」という神様の答えを示されたという経験を語っているのです。(Ⅱコリント12章8~9節)。同様に私たちも、そのイエス様の愛の光を受け、もはや素顔を隠すことなく、むしろその弱さも欠けも主の栄光を映し出す鏡として、誰に対してもさらすことが出来るのです。「主の霊のおられるところに自由があります」この言葉は、私たちの弱さも欠けも、すべてが神様の遣わす聖霊の働かれる場所であり、その聖霊によってこそ愛に満たされた弱さ欠けとして、輝くものとされていくのです。だから私たちは、自分のありのままの素顔をさらせる自由と、自分が主の愛によって輝くことの出来る喜びを、聖霊の導きによって堂々と現していきましょう。
(2016年5月22日週報より)