聖霊の息吹を受け

 わたしが去っていくのは、あなたがたのためになる。わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。(ヨハネによる福音書16章7節)
                
 聖霊降臨日の喜びの時を迎えました。聖霊という言葉は、私たちにとって、不思議なイメージを感じさせます。聖書には聖霊について、それは風のように自由に吹くものであり、どこから来てどこに向かっていくのかを私たち人間はとらえられないのだと言っています。また、聖霊は私たちの中に留まって、私たちに大胆に福音を語らしめる、宣教する霊であるとも示されているのです。たとえるならば、私たちが小さな種火に息を吹きかけて、炎を大きくしようとするかのように、聖霊は私たちの心の中に、消えかかっている小さな希望の種火に、新たな喜びのメッセージを風として吹き込んでくれる。そのようにして、私たちはまた、聖霊の息吹を受け、心を燃やされて福音の言葉を語り続けて行く力を与えられるのだ、ということでしょう。

 イエス様は十字架に掛かる直前、弟子たちに「あなたがたの心は悲しみで満たされている」と語りかけられました。それはご自身が、この世を去りもう弟子たちと共にいることが出来なくなる、その運命を彼らに示されたからでした。弟子たちは、イエス様のいなくなった世界で、自分たちがどう生きて行けば良いのか、と嘆き悲しまざるを得ない状況に置かれていたのです。ただその時、イエス様は「しかし、実を言うと、わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる」ともおっしゃられた、そのように聖書は告げます。

 今、燕が家の軒先などに巣をつくり、ヒナを育てるために、空中を飛び回って餌を取り巣の中で待っているヒナの所まで運ぶ、そういう姿があちこちに見られます。しかし、その子育ての時期も過ぎ、やがて自分の力で巣から飛び立つほどにまでヒナが成長した時、親燕は餌を運ぶことを止めます。子どもの自立を促すため、彼らが巣から飛び立つためそうするのです。その巣立ちの頃、まだ巣立ったばかりのヒナたちが、電線に寄り添うように固まって止まっている姿が目につくようになります。親がいなくなり、これから自分たちがどうして良いのか分からない、そのような心細い気持ちで子どもたちが御を寄せ合っているかのように見えます。しかし、新しい季節の風が吹けば、彼らも自分たちの力で餌を取って生きて行くため、一羽一々飛び立っていくのです。

 イエス様が天に昇られた後、弟子たちは聖霊を受けて、福音を世界中に宣べ伝えるため、それぞれが自分の道を選んで旅立っていったのだと伝えられています。だから、どんな時も、「時が良くても悪くても」私たちは、聖霊の息吹を新たに吹きこまれる一人一々として、それぞれの人生の行く先々でイエス様の福音の御言葉を自分たちの生きる希望とし、また多くの人を生き生きと生かすことの出来る喜びのメッセージとして語り続けていく力を与えられているのだと言えます。「善き羊飼いは羊のために命を捨てる。この言葉をしっかり握りしめて、それぞれの道を歩まねばなりません。母親から買い物を言いつかった子どもが、渡された硬貨を小さな手に握りしめて暗い恐ろしい夜道を急ぐように」(井上良雄説教集より)。
(2016年5月15日週報より)