耐えられない試練はない

 神は・・・あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。(コリントの信徒への手紙 Ⅰ 10章13節)
                
 先週の木曜日、14日夜9時26分、九州の熊本を震源とする大きな地震が起こりました。最大震度7という、阪神大震災や東日本大震災にも匹敵するほどの大きな揺れにより、家屋の倒壊や火災が起こり、死者、負傷者合わせ900人近くの被害者があったと伝えられています。このようなニュースを見たり聞いたりするたびに、なぜ神様はこのような悲劇をそのままにしておくのだろうか、という気持ちが頭をもたげてくることを禁じ得ません。しかし、一方ではこれは地球サイクルの大規模な自然現象であって、人間にはどうすることも出来ないし、このような自然の恵みの中で私たち人間も生きており、ただ、その恵みだけではない自然の恐ろしさをも人はこのような形で実感させられるのだということを思い知らされます。

 神様がいるのなら、どうして?という疑問には答えがありません。ある人には、このような自然災害は偶然に起こることであって、神様がいようがいまいが関係ない、運が悪ければ被害に遭ってしまうことだってある、と言うでしょう。また、こんな災害を起こす世界を完全な神であれば造るはずがない、やはり神など存在しないのだ、と思う人もいます。それらの考えは、それぞれ道理に叶った考え方で、それを不信仰だとか神への冒涜であるとか非難することは全く筋違いです。

 ただ、信仰においては、私たちはこのような出来事をも「試練」として受けとめる、決して不条理な破滅的出来事としてではなく、そのことを通しても私たちはなお神様のみこころのうちに歩まされる者として、そこに「試練」という二文字をあてはめて考えることが出来る。そのことも忘れてはならないことなのです。

 本来、試練とは人間が遭おうとして遭うものではありません。いつも思いがけない時に、想像もしていなかったことが人を襲う、それが試練というものでしょう。しかし、その出来事をただの不条理な災い「神も仏もない」悲運と嘆くのか、逆にその苦難を通して、それが自分を新たな道へと進ませていく契機として捉え、それをも神様が自分に対し何事かを伝えるメッセージとして受けとめるのか、その両者の違いは天と地ほどの開きがあります。「試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えて」いてくださる、と聖書は語っています。それは苦しい状況から逃げ出せるような逃げ道を神様が用意してくれるということではないでしょう。むしろ、苦しい状況をも「試練」として受けとめた時、人はそこに留まって、その苦しみの中でこそ生きる知恵や力を発揮していくものなのですから。あの地震の被災者の人たちのことは他人事ではなく、私たちすべての人間に起こり得る運命であることを覚えつつ、今、悲しみと深い痛みとを背負っている人々に、祈りと支援の手を差し伸べていくことは当然のことでしょう。ただ同時に、これらの出来事をも、意味の無い、人を苦しめ痛めつけるためだけのものではなく、すでに主イエスが十字架において知られた苦しみ痛みの延長上にあることを信じ、それを私たちが試練として乗り越えて行く時に、「耐えられない」ものは何一つ無い、希望という「逃れの道」をも見出すことが出来る。そのことを心に刻み付けていきましょう。
(2016年4月17日週報より)