新しい自分に生きる

 わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。(ローマの信徒への手紙6章6節)
                   
 私たちの体は、生まれた時から成長し続け、変化を繰り返し、決していつまでも同じではないことは周知の事柄です。しかし、私たちの心は、ある時点で、自分を自分の理想とする姿や形に留めたい、それ以上に変わることを拒否してしまうことがあります。アンチエイジングという言葉に象徴されるように、いつまでも若い体であり続けたい、いつまでも健康な自分であり続けなければいけない、という思いが誰にでもあります。ただ、そのような思いが、自分自身の現実とマッチしなくなることで、人が「老い」の残酷さを感じざる得なくなるのも、誰もが味わう事柄なのです。

 聖書には「古い自分」という表現が出てきますが、それは人が年齢を重ねて老化していくという意味での古さなのではありません。むしろ、いつまでも若くあらねばならない、また、自分で自分がこうありたいと願うその思いにいつまでも拘り続け、そこに執着し続けて行く、言い換えれば変わることを拒絶する思い、その思いそのものが「古い自分」なのだと言っているのです。

 確かに自分が自分の願っていない自分に変わってしまうこと自体、やはり抵抗感を感じざるを得ないのが私たち人間の思いです。しかし、そういう変わらない自分に拘り続け、自分の現実を肯定出来ないことは、私たちが「罪に支配された体」のままである、そのことの証明であるとも言えます。罪とは、私たちが自分自身を他の自分のものではない尺度で測り「お前はこうでなければいけない。こうあらねば価値がない」と自分を追い立て、自分をゆがめた形へと固定してしまう、そのように人間をがんじがらめにし支配し続ける力なのです。

 子どもは成長していくごとに、着る服も履く靴もそれに合わせて買い揃えなければなりません。もしいつまでも、同じ服や靴のままだと、子どもの成長を阻害しその体を傷つける結果になることは明瞭です。同様に、私たちは自分の年齢に合ったその時の自分に最も相応しい装いを、歳を経るごとに変えていくことが必要なのです。「古い自分」はもうイエス様が十字架において「滅ぼして」くださった。だから、もう罪に支配され「こうあらねばならない」という風に自分に無理矢理縛り窮屈な服や靴を着させられ、履かされて生きる必要はないのだということなのです。

 イエス様が、イエス様だけが、私たちすべての人間をとことん愛し受け入れ肯定してくださる、その愛だけがいつまでも変わらない永遠の真理であることを知るならば、もはや私たちの「古い自分」「罪に支配された体」はいつでも何度でも滅び去り、過去のものとなっても構わないのです。大切なことは、体は古くなり、心も変わっていく私たちが、ただイエス様の十字架と復活という変わらざる私たちへの愛のみわざによって、もう「罪に支配されない」「新しい自分」へと新たに生き始めている、それが信仰者の人生であることを何よりも喜ぶべき真実の自分の姿として受け止めていくことなのです。
(2016年4月10日週報より)